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モオリス・ド・ゲランと姉ユウジェニイ
モオリス・ド・ゲランとあねユウジェニイ |
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作品ID | 48309 |
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著者 | 堀 辰雄 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「堀辰雄作品集第五卷」 筑摩書房 1982(昭和57)年9月30日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 岡村和彦 |
公開 / 更新 | 2013-06-09 / 2016-01-18 |
長さの目安 | 約 10 ページ(500字/頁で計算) |
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Maurice de Gu[#挿絵]rinはラングドックのシャトオ・ド・ケエラに一八一〇年八月五日に生れた。姉のEug[#挿絵]nieはそれより五年前、一八〇五年一月二十九日に生れた。美しい南佛の空の下に、貧しいけれど古い由緒のある貴族の家に生ひ立つたモオリスは、早くも六つのときに母を失ひ、その後は姉のユウジェニイの手で育てられた。シャトオ・ド・ケエラは遠くに溪谷を見おろす人氣のない臺地にあり、モオリスはそこの森などで姉とともに夢多き少年の日を過ごした。十一のとき彼は故郷を離れて、トゥルウズの小神學校に入つた。そのときから姉のユウジェニイとの間に後に有名になつた文通がはじまつた。十四になるとさらに巴里に送られてコレエジュ・スタニスラスに入つた。古典を修めんがためである。學友にはBarbey d'Aurevillyなどがゐた。そしてそこに五年間勉學をし、その間ケエラには一度も歸らなかつた。一八二九年の夏はじめて歸省し、ひさしぶりで家族のものと共に休暇を過したのち、再び巴里に出た。そこで一八三二年四月業を了へ、ケエラに歸つてきたのは二十二のときであるが、いまはもう昔のやうな信仰を失ひ、人生を前にしていかにも不安に堪へないやうな、傷心憂思の青年になつてゐた。十月までケエラで過し、ユウジェニイと共にその親友Louise de Bayneを訪れてシャトオ・ド・レエザックに客となつたりしてゐた。彼が心の危機を深く感じて「日記」を書きはじめたのはその間である。あたかもそのときブルタアニュのラ・シェネエに隱棲せるラムネエが、彼の主張する加特力教上の新しい教義に參ずる若い弟子たちを集めてゐた。モオリスもその膝下に加はる決意をなして、再び故郷を離れた。彼がラ・シェネエに著いたのはその冬(一八三二年)のはじめであつた。その當時の彼の手紙や日記には、「ブルタアニュの古い森の中で孜々として學ぶことの異常な強い魅力」のある其地の隱棲生活が印象ぶかく語られてゐる。彼は同時にH. de La MorvonnaisやF. de Marzanなどのよき友を得て、彼等との交友によつても文學上の影響を大いに受けた。しかし、そのとき師ラムネエにはまさに重大な危機が迫つてゐた。その有力なる同志ラコルデエルは遂に彼と袂を別つて去り、羅馬はその宗教結社の解散を命ずるに至つた。一八三三年九月ラ・シェネエ解散のあと、モオリスはなほブルタアニュに止つてヴァル・ド・ラルゲノンに氣持の佳い家と美しい妻をもつた詩人イポリット・ド・ラ・モルヴォネエの許などに冬ぢゆう滯在してゐた。翌年一月末、彼は巴里に出た。そこで二三の雜誌の寄稿家となり、文筆をもつて世に立たんとしたが、その夢も空しく、彼はしばらく母校の仕事の手傳や家庭教師の仕事などをして口を糊するよりほかはなかつた。それらの仕事のために、彼は朝から晩まで巴里ぢゆうを…