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自刻木版画に就いて
じこくもくはんがについて
作品ID48380
著者岡本 帰一
文字遣い新字旧仮名
底本 「思い出の名作絵本 岡本帰一」 河出書房新社
2001(平成13)年8月30日
初出「現代の洋画 二十三号」1913(大正2)年
入力者川山隆
校正者鈴木厚司
公開 / 更新2008-09-25 / 2014-09-21
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 自刻の木版画が一般の人に段々重く見られて来た。然し未だ沢山出来ると云ふ事と価値との関係が絶えてない、又自刻の木版をやる人が沢山出来て来た。然し今迄で自分の見た内で極少数の人の外は多くは、趣味の人の画であつた、寧ろ皆と云ひたい。
 木版及び刀が持つて居る特殊な味ひ、如何にもしつくり心地のいゝ印刷、習慣、商業人にない特殊な技工、之等から可成自由に、自分の趣味を発揮した人もあつた。
 然し多くは素人として、刀の無器用な、使方不十分が反つて自然なプリミティブの感じを表はすので自刻して居る人もある。
 要するに皆趣味の人である。そして多くの人の物は、凡そ、画を少し描く器用な人には少し技工の練習をすれば誰れにでも出来得る物である。少数の前者はそれに依つて自分を慰め楽しんで行ける趣味の人である。
 木版の持つ気分は自分も非常に好きである。然し画を自分には趣味の物ではない、趣味の人ではない。自分の画は自分にとつて絶対の価値である。
 全然自分である。少しも他人を交へぬ自分の全人格である。一杯に自分を表すならば版画は必然自刻せねばならない。此の立場から他人に彫らせると云ふ事は如何な場合でも無意味である。自分の画に他人にない自分の生んだリズムがある、筆触がある、如何にいゝ彫刻師でも、如何程巧で忠実に彫つても自分とは縁の遠い物である。
 自分以外に自分の画を自分程知つて居る者はない。其画に他人が入いれば全人格の自分の画ではない、技工も必然に生れるのである。木版特別な独殊な気分も、気持を表す印刷も要するに財料手段である、第一義の者ではない。而して自分は趣味の人間ではない、自分の画は版画にしろ、油絵にしろ、デツサンにしろ、自分の苦闘の戦利品である。自分の生な生活の其時々、セクシヨンブある、自分の悲壮な人間のライフの生長の証拠である。材料は異つても、画は同じである、然し自分は時々経世の為に、自分を職人にする、労働して居る、それで板を彫る事も自分には労働である。
 其時々、表はすに最も都合のいゝ材料手段を取る、そして自分は木版が好きである。
 自分は木版に殆ど下絵をしない。
 ドローイングをやる時や、写生する時、よく版を全部黒く塗つて刀で彫つた所が白く出で行く方法を取る。又簡単な色刷もやるが。
 皆出来る丈け単純化された者である、何かをシンボルしたものである。斯う云ふ物に一番よく木版を生かせる。今迄の多くの人、例へば山本鼎君の木版等、自分には下らないものだ。木版画から木版独特其自身の持つ気分の外には、貧弱な、拙い画がある許りで、其木版独特の気分は誰れでも木版をやつて居る人は共通に持つてゐる、独特の技工もない。
 自分が初めに少数と云つたのは、ムンクやヴアロツトンの事である。少くとも今迄の日本人にはない。
 自分は、自分とは道が異ふが、木版画に於ても、一番に肯定する。自分は今迄見た内でム…

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