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杉田の一夜
すぎたのいちや
作品ID48426
著者大町 桂月
文字遣い旧字旧仮名
底本 「桂月全集 第二卷 紀行一」 興文社内桂月全集刊行會
1922(大正11)年7月9日
入力者H.YAM
校正者小林繁雄、門田裕志
公開 / 更新2008-12-17 / 2014-09-21
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

疲れてくたばるまで歩いて見むと、草鞋脚半のいでたちにて家を出でたれど、汽車のある路は、馬鹿々々しくて歩かれず。横濱までは汽車に乘り、龍頭より小舟に乘りて、屏風ヶ浦をわたる。西山夕陽を啣みて、海波紫に、うち渡す暮烟の中に、ひとむら濃きは杉田なるべく、うれしくも花候におくれざりしと、まづ心ゆきしが、やがて杉田に近づけば、暗香おのづから人を撲つに、ゆかしさ限りなし。既に四たび五たびも遊びて、殘る隈もなく見盡したる地なれど、未だ月夜の梅を見たることなし。今宵こそはとて、東屋にやどる。
 磯山寺の華鯨音なく、梅を殘して靜に暮るゝ春の夕べ、何となう面白く、仰ぎ見れば、むかつをの頂に、老松一株翼然として天を摩するさま、殊に韻致を添ふるに、しばし二階の障子を明け放して見とれけるが、忽ち空艪漕ぐ聲す。花を見すてて歸る雁がねにや。一首なくてはと空を見わたせど、雁影は見えず。忽ちまた鳴く。されど、なほ見えず。三聲四聲、あまり鳴音のしげきに、よく/\聽けば、まことの雁にはあらで、宿に飼ひたる鶩のなく音なりと氣が付きて、覺えず雨江と相顧みて一笑す。
 酒に陶然として醉ひ、宿を立ち出でて、まづ前遊の時立ちよりし茶店に茶を乞はむとて、戸を推せば、恰も入れちがひに、一人の僧の歸りゆくあり。見れば、白鬚長き老翁、爐にあたり、自在にさがれる鐵瓶を隔てて老媼と相對す。僧を送り出でたる一人の女、土間に臥せる小犬を抱き起せば、犬は狎れて、その手を舐りながら、ねむたさに堪へでや又靜かに眠る。女、われらを顧みて、東屋に宿りたまひたる御客ならむといふ。如何にして知りたると問へば、先程已に通知ありたりとて笑ふさま、山家そだちのものとも見えず。老媼茶を汲みて出せば、女そを受取りて、いざとて侑む。酒後の茶とて、味ひ太だ好し。老翁しきりに、上りて爐に當れよと云へど、夜も更けたり、また來むとてたち出づ。
 八幡祠前を散歩す。このあたり、梅尤も多し。一痕上弦の月、天に印し、林下寂として人なし。花は已に滿開なれど、月光おぼろなれば、一望たゞ白模糊たるを見る。晝間はいぶせき茅屋も、梅花にうづもれて、夜色の中に縹渺たるさま、えも言はず。すべて見苦しきものは掩ひつくされて、香氣獨り高く、骨までもしみ通るかと疑はる。われ此景に對して、また言ふ所を知らず。遂に堪へ兼ねて、一枝を手折りて歸る。
 春まだ淺き夜寒の風に、醉もさめたれば、また麥酒のみて眠に就く。折り來りし梅枝は枕頭に在り。脈々たる幽香に護られて、醉夢いづくにか迷ひけむ、窓に近き鶯聲の綿蠻たるに驚けば、日は已に梅林の梢に昇りぬ。名殘は盡きねど、宿を辭して、八幡祠後の山に上る。一村眼下に在り。梅は茅屋の間に點綴す。左に本牧岬を望み、右に觀音崎を望み、房州の山、天邊に寸碧を[#挿絵]く。東風のどかにして、海波熨するが如く、布帆みな坐するが如し。路の兩側に茶店あり。右よりは三…

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