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縁起に就いて
えんぎについて |
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作品ID | 48446 |
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著者 | 原 民喜 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「原民喜全集第一巻」 芳賀書店 1966(昭和41)年2月15日 |
入力者 | 蒋龍 |
校正者 | 伊藤時也 |
公開 / 更新 | 2013-04-14 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 2 ページ(500字/頁で計算) |
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就職のことがほぼ決定してその日の午後二時にもう一度面会に行けばいいと云ふ時、恰度午後一時半、彼は電車通りで下駄の鼻緒を切った。で、すぐ何処かで紐を貰へばまだ間にあったのに、円タクを呼んでその儘彼は自宅へ帰ってしまった。
親爺は息子がこんな理由で帰って来たのを知ると、「フン。」と云ったきり賛成も批難もしなかったが、腹の底では、「こいつ俺のやり方を真似てあてこすってるな。」とでも考へざるを得なかった。それほどこの息子は縁起などと云ふことにこれまで無頓着な人間であった。
このことを聞いて喜んだのは、むしろ彼の友達であった。彼はその友達が人間の自由意志を強調して因果律を無視しようとするのに、これまで反対して来た。ところがその友達は彼のことを今度のことから、実に旧式な迷信的な宿命論者だと云って嗤ふのであった。嗤はれる彼の側から云ふと、――ものは外形のみでは判断出来ないと云ひたかった。
彼はこの不景気にも珍しく、いろんな情実関係から就職口の三つや四つは大学卒業前から話があった。だから何も急いでその一つにねばりつく必要はないと云ふ心の余裕があったことが一つ。それから、あの時気分が勝れてなかったし、あの会社に就職することにあまり気乗りがしなかったことが一つ。この二つが大切な原因で、下駄の鼻緒はむしろ親爺に対する方便であったのだ。
詳しくみると、親父はよく都合の悪いときにばかり縁起を担ぐのであった。成程、縁起と云ふものを始めて考へ出した人間は、それをただ単純に嗤ふ人間よりか馬鹿だとは云ひ難い――と彼はつくづく考へた。