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卜居
ぼっきょ
作品ID4845
副題津村信夫に
つむらのぶおに
著者堀 辰雄
文字遣い新字新仮名
底本 「堀辰雄集 新潮日本文学16」 新潮社
1969(昭和44)年11月12日
入力者横尾、近藤
校正者松永正敏
公開 / 更新2004-01-15 / 2014-09-18
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 この家のすぐ裏がやや深い谿谷になっていて――この頃など夜の明け切らないうちから其処で雉子がけたたましく啼き立てるので、いつも私達はまだ眠いのに目を覚ましてしまう程だが、――それでも私はその谿谷が悪くなく、よく小さな焚木を拾いがてらずんずん下の方まで降りていったりする。その谿谷の丁度向う側にある、緑色の屋根をした大きなヴィラが、いまはまだ木の枝を透いて手にとるように見える位。その谷間の雑木林はやっと芽を出したばかりだが、今日なんぞ、そこで焚木を拾っていたら、ぶんと蚋らしいものがいきなり飛んできて、私の顔のまわりにいつまでもつきまとっていた。少しうるさかったが、なんだかちょっとそれに夏の気分を感じて、懐かしくもあった。――それほどもう夏の或るものがついそこまで来かけているというのに、それを除いたすべてのものにはまだ春さえ充分には行き渡っていない。夜なんぞはこれで想像以上に寒い。いまだっても、この手紙を書きながら、ファイア・プレェスに火を焚いているほどだ。しかしそれは私が昼間谷から自分で採ってきた僅かな焚木でも事足りる、わざわざ薪を買うほどのこともない……と、まあ、そういった位の余寒さだ。
 そう、まだ君にはこの新居のことを話さなかったね。御想像どおりの、相変らずの不便な山の中で、それに慣れっこの自分はともかくも、はじめての女房には、いささか可哀そうな位だし、それに家がすこし二人だけで住むのには大き過ぎたけれども、小屋のつくりが(こんなのを端西などで Ch[#挿絵]let というのだろうか)いかにも気に入ったので、思い切って借りた。――本当をいうと、こんな一番山奥の、それにこんな二人きりには少し大き過ぎて持てあまし気味の小屋を、他にいくつもあった手頃な小屋よりも私に特に選ばせたのは、実はこのファイア・プレェスの傍に二つ三つ無雑作にころがっていた古い樫の木の椅子(昔から私はこんな椅子をどんなに欲しがっていただろう!)と、それからレムブラントの絵なんぞの入った額縁がいくつか裏を向けて埃まみれのまま壁に立てかけてあった小さな屋根裏部屋となのだ。いくら女房持ちになったって、こんな風な一向変らない私を知って、さぞ君は嬉しがってくれることだろうな? それとも少しは私達の行末が気になるとでも云うかね?
 私はその屋根裏部屋をすぐ自分の部屋にきめて、そこに自分の椅子のすべてと、それから去年火事ですっかり焼いてしまってから又ぽつぽつと集め出した少数の本の中から、特にリルケのだけを持ち込んだ。これは女房の奴には内証だが、私はこの屋根裏部屋にときどき閉じ籠っては、全く一人っきりで、昔の自分にそっくりそのままの自分に返って、心ゆくまで自分の青春に訣別を告げようという陰謀。――が、その代り、階下の、女房と共同の部屋には、女房に買って貰ったトルストイ全集だの、ジャック・シャルドンヌの「祝婚…

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