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滑走
かっそう |
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作品ID | 48451 |
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著者 | 原 民喜 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「普及版 原民喜全集第一巻」 芳賀書店 1966(昭和41)年2月15日 |
入力者 | 蒋龍 |
校正者 | 伊藤時也 |
公開 / 更新 | 2013-04-14 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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雁江の病室には附添ひの看護婦がゐた。彼女と同じ位の年輩だったが、看護婦の方が遙かに大人びてゐた。長い患ひが、この頃やうやく癒えて来ると、雁江は身体だけでなく心までがすっかり変って来るやうな気がした。病室には早咲きのシクラメンがあった。看護婦は四六時中雁江の部屋にゐた、もう一カ月あまりその部屋の空気を一緒に呼吸して来たのだった。病気に罹ると云ふことを雁江はもともと厭でなかった。父がまだ生きてゐる頃など父の愛情が急に濃く細かに感じられた。女学校時代も卒業後も友達が持てなかった雁江は、それでなくても現実の脅迫が強すぎた。病床に就いてしまへば、それがともかく逃避出来た。雁江は満たされない感情のためにも、いくぶん虚無的な、生命を弄びたがる傾向があった。傍の眼には大人しすぎる、沈鬱な女であったが、内部には柔い夢想が育まれてゐた。ただ、何処かに障碍があって、彼女は環境と和合出来なかった。そのため、日常生活と云ふものは彼女にとって、厭らしい重荷であった。彼女は結婚のことを考へると、更に悲観的になった。男性は一面彼女を最も脅す存在であった。崇高な男と云ふものは実在しさうになかった。男は彼女を傷けるためにゐた。雁江は絶海の孤島に生きてゐた。
その孤島へ始めて訪れて来たのが今度の看護婦だった。絹江と云ふ看護婦は、始めて彼女を普通の人として取扱った。雁江の方にも随分譲歩があったにはあった。人から口をきかれた時、大概短い返事でぽつんと突放す癖のある雁江が、絹江から始めて口をきかれた時には、病気の所為もあったが、努めて長い言葉を用いた。それに雁江は相手がやはり努力して口をきいてゐるのを見てとった。人扱ひに慣れたこの女が、雁江に対してもどかしさうにしてゐるのを見た時、雁江はふと微笑を感じた。それから二人の友情は長い間、或るもどかしさを以って進んだ。雁江には人と口がきけるのが珍しかった。絹江はある日、自分の恋人の話をして聞かせた。その看護婦に附文する男が五指を出でると聞いた時、雁江は耳まで赤面してしまった。すると、絹江もそれに気づいて、済まなささうな表情をして黙ってしまった。雁江は今度は自分の方から好んでその話を聞きたがった。異性の話から二人の友情はまた少し接近した。雁江は聞かされる側ではあったが、それでも絹江にまだ真実の恋人はないと告白された時には吻と安心した。二人は一緒に一人の異性を恋しはすまいかと云ふをかしな考へが生じて、雁江は面白さうに笑った。
退院後も絹江の方から暇な時にはよく訪ねて来た。二人は狭い田舎の街や郊外を散歩した。キネマや、喫茶店や、汁粉屋へ入ることを雁江は慣れた。絹江は細巻の煙草をいたづらに吸ったりした。一年足らずのうちに雁江はすっかり外貌を改めた。雁江は前から漠然と希望してゐた上の学校へ入学することをその頃になると本気で主張した。義理の母とは衝突もあったが、と…