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きり
作品ID48457
著者原 民喜
文字遣い新字旧仮名
底本 「普及版 原民喜全集第一巻」 芳賀書店
1966(昭和41)年2月15日
入力者蒋龍
校正者小林繁雄
公開 / 更新2009-07-21 / 2014-09-21
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 何処かの邸の裏らしい芝生の傾斜が、窓のところで石崖になってゐた。窓からその傾斜を眺めると、針金を巡らした柵のあたり薄の穂が揺れてゐて、青空に流れる雲の姿が僅かに仰がれた。そこは色彩のない下宿屋の四畳半で、三人の男がくつろいだ姿勢で、くつろぎすぎた時間をやや持て余してゐた。とは云へ三人が三人同じ気分に浸れるのは、議論の果ての退屈に限った。
 彼等は逢へば始め必ず議論をしたが、勝手な言葉と世界観の相違のため、何時も話は途中から喰ひ違って、傍から観るとまるで喧嘩をしてゐるやうであった。小さな眼をした男は薄い唇を自在に動かして、大きな鼻をした男の攻撃に応じるのだった。彼は人間最大の不幸は死の恐怖であり、人類の続く限りこれは消滅しないから、一刻も早く全人類を撲滅さすに限ると云ふ、ややシヨウペンハウエル流の考へを抱いてゐた。ところが彼に食ってかかる方の男はウパニシャットを愛誦し、たとへば富士山の崇高を仰ぐやうな気持で、人類諸君を肯定的に見渡してゐるのであった。二人の議論にはあまり加はらないで、まづさうに煙草を吸ふ神経質の男は、この男は両方へ味方しながら両方へ反対する、つまりソフィストであった。
 今日も些細なことを発端として、小さな眼をした男と大きな鼻をした男との意見は結局一致しなかったが、そのため大きな鼻の男の方がより不機嫌な顔をした。すると小さな眼をした男は議論をこの辺で打切る積りで、詠嘆的な調子で、
「しかし、僕はこの二三日フロイドのトーテムとタブウを読んでるが、フロイドはいいね。一つ一つ胸に思ひあたることだらけだよ。」と云った。すると大きな鼻をした男は如何にも我が意を得たやうな顔で、
「君もさう思ふのかい。」と云って、今度は頻りにフロイドの話であった。
 そのうちに精神分析の話がだらけて、ほんとの冗談になって来ると一番にソフィストが口をきいた。
「君達だって今にのうのうと女房持って収まるとよ、オイ、葱を買って来給へよ、なんて云ふのだらうね。」
 すると眼の小さな男は鼻の大きな男の口真似をしながら、
「オイ、竹田さんがおいでになったから、牛肉と葱買って来いよ。オイ、オイ、それから焼豆腐も忘れるなよ。コラ、コラ、何故返事しないのだ。ハハハ、君が一番に女房もって子供生むにちがひないよ。」
「俺は子供なんか生まない。」と大きな鼻の男は不平さうに呟いた。
 三人は退屈しながらも何時までも別れようとはしなかった。夕方から街を覆った霧が窓の方へも寄せて来た。彼等の気持も霧のやうに段々重苦しく不透明になって来た。そこで街に出てひどい霧のなかを通って、喫茶店で濃いコーヒーを飲んだ。しかし、もう誰もあまり口をきかないのであった。三人は更に無意味に街を歩いて、歩き疲れて、観念も肉体も冷えきって、唯一杯の支那そばが食ひたくなった。
 支那そば屋の粗末な椅子に並んで腰を下すと、三人は無…

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