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「美しかれ、悲しかれ」
「うつくしかれ、かなしかれ」
作品ID4846
副題窪川稲子さんに
くぼかわいねこさんに
著者堀 辰雄
文字遣い新字新仮名
底本 「堀辰雄集 新潮日本文学16」 新潮社
1969(昭和44)年11月12日
入力者横尾、近藤
校正者松永正敏
公開 / 更新2004-01-09 / 2014-09-18
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



十月六日、鎌倉にて
 お手紙うれしく拝読いたしました。半年ぶりで軽井沢から鎌倉に戻ってきたばかりで、まだ何か気もちも落ちつかないままにお返事を遅らせておって申訳ありません。
 丁度軽井沢を立ってくる前に、いただいた御本の中の「樹々新緑」などをなつかしく拝読して参ったばかりのところへ、又お手紙でその時分のことをいろいろと蘇らせられ、本当に何から先にとりあげて御返事を書いたらいいのか分らない位です。
 あの頃のこと――あなたがお手紙や「樹々新緑」の中でお書きになったその時分のこと――を思いうかべると、いつも僕の口癖のようになって浮んでくる一つの言葉があります。或る時はフランス語で、〈Sois belle, Sois triste〉と、――又或る時は同じ言葉を「美しかれ、悲しかれ」と。――ときには僕はその文句に「女のひとよ」という一語を自分勝手につけ加えて、口の中でささやいて見ることもある。そうすると僕の裡にいろんな事が浮んできたものでした。あなたがお書きになっていた、田端や日暮里のあたりの煤けたような風景や、みんなの住んでいた灰色の小さな部屋々々や、毎夜のようにみんなと出かけていった悲しげな女達の一ぱいいたバアや、それから、二三度そんな若い僕たちの仲間入りをして一しょに談笑せられていた芥川さんがすこし酔い加減になってそういう女達を見まわしながらふいと思い出されたように僕の耳にささやかれたその〈Sois belle, Sois triste〉という言葉だのが……
 それはボオドレエルの一行でした。そのあとでお書きになったものを見ると、そのときの芥川さんにはふいと思い出されたそのボオドレエルの美しい一行が、よほど深く胸におこたえになったものと見えます。
「美しかれ、悲しかれ」――ああ、本当にこの言葉くらい僕に自分の若い時分のことを、その苦痛も歓びも、一しょに思い出させるものはありません。フランシス・ジャムのさまざまな少女を唄った詩集を読んでいたきりぐらいの年少の僕がいきなりみんなの仲間入りをさせられ、みんなの生き抜こうとしていたはげしい青春に面接させられ、どれほど少年らしい戦慄と好奇心とをもってその新しい生を前にして足ぶみしていたことでしたろう。それはあなた達にさえお分りにならなかったでしょう。そうしてあなた達がそういう僕にどんなに多くのものを与えて下すったか、それも殆どお気づきにはならなかったに違いない。本当に、それに比べれば私があなた達に与えたものなんぞ物の数にもはいらぬことです。
 いわば、そうやって、みんながはげしく生活し、いきいきとした仕事をしだしている傍らで、僕は自分の番がくるのを胸をしめつけられるような気もちで待っていたみたいでした、が漸と自分の番が来たかと思ったときには誰ももう居りませんでした。僕は一人きりで愛したり、苦しんだり、それから仕事を…

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