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ほのお
作品ID48487
著者原 民喜
文字遣い新字旧仮名
底本 「普及版 原民喜全集第一巻」 芳賀書店
1966(昭和41)年2月15日
入力者蒋龍
校正者伊藤時也
公開 / 更新2013-04-26 / 2014-09-16
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 雪が溶けて、しぶきが虹になった。麦畑の麦が舌を出した。泥濘にぺちゃぺちゃ靴が鳴る。をかしい。また春がやって来る。一年目だ。今度こそしくじったら台なしだ。だけど三百六十五日て、やっぱし、ぐるりと廻るのだな。イエス・クリストよ。ヨルダンの河てどんな河なのかしら。

 たった二三時間、二三枚の紙に書いた、書き方が下手くそだったので、一年間遅れるんだよ、僕は。それが負け惜しみと云ふものだ、と矢口が云ふ。矢口はもうすぐ中学へ通ふのだから僕より偉がるのだ。話を変へなきゃいかん。君の今度はいった中学のポプラは素敵だね、大きいね。いいや、一寸も大きかないさ。もっと大きいのが何処にだってあるさ。ちょ、楯突いて来るのだな、僕が落こちたから、馬鹿にされるのだな。仕方がない、もうすぐお別れなのに、名残惜しがらないのだな。オヤ、あんなところに目高がゐるよ、君。

 やい、やい、試験に落ちた大目球、一年下の三浦が皆の前で冷かした。三浦の柔かさうな頬ぺたを視つめながら、康雄はポケットのなかの拳骨を握りしめた。しかし、ぶっ放さなかった。

 外でも家でも康雄は面白くなかった。家では母に癇癪玉ぶっ放した。切出小刀を掴んで切腹しかけると、母が火のやうに怒って飛びかかる。小刀が落ちて炬燵の角で頬を打った。それが痛さに康雄は泣く。死んだらもっと痛いのかなと思ひながら炬燵で足を温める。すると何故さっき自棄起したのか、忘れてしまふ。中学が一年遅れたこと位どうだっていいぢゃないか、趾の裏が今温い方が気持がいい。

 康ちゃんのいけないのは何だと思ふ。さあ、沢山あると思ふ。そのうちでもよ。さあ。忍耐強くないことよ。さう云って姉は大切なことを説き出した。それが何時の間にか、アダムとイブの伝説に移り、クリストの話になってゐた。汝の敵を愛せよとクリストは仰ったのです。大きな愛の心でこの世を愛すると、何も彼も変って来ますよ。
 その話を聴き終ってから康雄の頭は急にすっきりした。姉の病室を出て、病院の庭を散歩してみたら、中央の池のなかの芝生の島に、女の児がハンケチを持って、風にゆらぐハンケチに[#「ハンケチに」は底本では「ハンチチに」]犬が戯れてゐた。絵のやうだ。なるほどこいつは世の中がさっきとは変った。再び姉の病室へ戻ると、ペットに横になった姉は大きな眼で康雄を視つめた。姉は青空のやうに澄んだ眼をした。さうだ、これからは何でも怺へて、姉さんの云ふ通りにならう、と決心すると康雄は胸が小躍りして来た。
 その夕方家へ帰る途中も、胸の鼓動は病院からひきつづいてゐた。細く遠くまで続いた街の果てに、春の夕方の雲が紅く染まってゐた。その筒のやうな街を急いでそはそはと康雄は歩いた。神様てものはあったのだ。長い間の疑問が解けて来た。康雄はそはそはする空気のなかで、始めて密かに祈った。と、小路から三浦が追駈けて来て康雄に声を掛け…

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