えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
楽天Kobo表紙検索
曇天
どんてん |
|
作品ID | 48489 |
---|---|
著者 | 原 民喜 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「普及版 原民喜全集第一巻」 芳賀書店 1966(昭和41)年2月15日 |
入力者 | 蒋龍 |
校正者 | 伊藤時也 |
公開 / 更新 | 2013-04-23 / 2014-09-16 |
長さの目安 | 約 2 ページ(500字/頁で計算) |
広告
広告
放蕩の後の烈しい哀感が街中に慄へてゐるやうな日だった。
浅草を過ぎ上野まではバスで、上野から省線で田町へ来ると、遙かなる旅でもして来たやうだった。疲れてはゐたが何か興奮してゐた。光本は下宿に帰って夜具を敷いて寝たが、すぐに目が覚めてしまった。自分の首に安白粉の匂ひが残ってゐて、それが耐らなく彼を訶んだ。青ざめた顔をして今日は誰にも識った人間に遇ひたくはなかった。彼は何処かへ逃避したい気持で一杯だった。ふと彼はキネマの闇が恋しくなった。
芝園館へ行ってみると満員であった。光本は疲れた身体を観衆に押狭まれながら立ってゐた。映画はキイトンの喜劇であった。観衆は時々どっと笑った。光本は自分が一寸も笑はないのに気がついた。どうしてあんなことが可笑しいのかと思へるやうな処でも、観客はわーと笑った。彼は笑へない自分を自分でみじめだと思ひ始めた。すると昨夜の記憶が時々兇暴な刃物のやうに脳裡に閃いた。
ふと、前の席にゐるらしい婆さんが何でもない処でワハと笑ひ出した。すると一同はそれがをかしいとみえて、くすくす笑った。婆さんは図に乗って、また暫くするとワハと笑った。すると観客はまた従いて笑った。婆さんは完全に笑ひをリードしてしまった。流石に光本も今は微笑を浮かべるのであった。