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虚弱
きょじゃく
作品ID4873
著者三島 霜川
文字遣い旧字旧仮名
底本 「三島霜川選集(中巻)」 三島霜川選集刊行会
1979(昭和54)年11月20日
初出「新生」1908(明治41)年2月1日
入力者小林徹
校正者松永正敏
公開 / 更新2003-12-22 / 2014-09-18
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 友と二人でブラリと家を出た。固より何處へ行かうといふ、的もないのだが、話にも厭きが來たので、所在なさに散歩と出掛けたのであツた。
 入梅になッてからは毎日の雨降、其が辛と昨日霽ツて、庭柘榴の花に今朝は珍らしく旭が紅々と映したと思ツたも束の間、午後になると、また灰色の雲が空一面に擴がり、空氣は妙に濕氣を含んで來た。而て頭が重い。
「厭な天氣だね。」
「こんな日は何うも氣が沈んで可けないものだ。」
味も素氣もないことを云ツて、二人は又黙ツて歩を續ける。
 道路の左側に工場が立ツてゐる處に來た。二十間にも餘る巨大な建物は、見るから毒々しい栗色のペンキで塗られ、窓は岩疊な鐵格子、其でも尚だ氣が濟まぬと見えて、其の内側には細い、此も鐵製の網が張詰めてある。何を製造するのか、間断なし軋むでゐる車輪の響は、戸外に立つ人の耳を聾せんばかりだ。工場の天井を八重に渡した調革は、網の目を透してのた打つ大蛇の腹のやうに見えた。
「恨ましやすんな、諦めなされ、
 日の眼拜まぬ牢屋の中で、 
 手錠、足械悲しいけれど、
 長い命ぢやもうあるまいに
 何うせ自暴だよ……」
 皺嗄れた殆ど聴取れない程の聲で、恁う唄ふのが何處ともなく聽えた。私は思はず少し歩を緩くして耳を傾けた。
 機械の轟、勞働者の鼻唄、工場の前を通行する度に、何時も耳にする響と聲だ。決して驚くこともなければ、不思議とするにも足らぬ。併し何ういふものか此時ばかり、私の心は妙に其方に引付けられた。資本主と機械と勞働とに壓迫されながらも、社會の泥土と暗黒との底の底に、僅に其の儚い生存を保ツてゐるといふ表象でゞもあるやうな此の唄には、何んだか深遠な人生の意味が含まれてゐるやうな氣がしてならなかツた。
 けれども勞働者の唄は再び聽えなかツた。只軋く車輪と鐵槌の響とがごツちやになツて聞えるばかりだ。若しや哀れな勞働者は其の唄の終らぬ中、惡魔のやうな機械の運轉の渦中に身躰を卷込まれて、唄の文句の其の通り、長くもない生涯の終を告げたのではあるまいか。と、私はこんな馬鹿氣たことまで空想して見た。
「何んだか悲しい唄ぢやないか。」といふと、
「然うだね。僕は何んだか胸苦しくなツて來たよ。」と儚ないやうな顏をしていふ。
「何うして急に舍して了ツたのだらう。」
「然うさね。」
其は永遠に解けない宇宙の謎でもあるかのやう。友と私とは首を垂れて工場の前を通過ぎた。
「君、此の頃躰は何うかね。」と暫くして私はまた友に訊ねた。私達は會ふと必ず孰ちか先に此の事を訊く。一つは二人共躰に惡い病を有ツてゐるからでもあらうが、一つはまた面白くない家内の事情が益々其の念を助長せしむるやうになツてゐるので、自然陰欝な、晴々しない、稍もすれば病的なことのみを考へたり言ツたりするのであらう。
「躰?」と友は些ツと私の方を見て、「躰は無論惡いさ。加此此の天氣ぢやね。」

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