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街の底
まちのそこ
作品ID4876
著者横光 利一
文字遣い新字新仮名
底本 「愛の挨拶・馬車・純粋小説論」 講談社文芸文庫、講談社
1993(平成5)年5月10日
入力者栗田聡史
校正者土屋隆
公開 / 更新2004-08-01 / 2014-09-18
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 その街角には靴屋があった。家の中は壁から床まで黒靴で詰っていた。その重い扉のような黒靴の壁の中では娘がいつも萎れていた。その横は時計屋で、時計が模様のように繁っていた。またその横の卵屋では、無数の卵の泡の中で兀げた老爺が頭に手拭を乗せて坐っていた。その横は瀬戸物屋だ。冷胆な医院のような白さの中でこれは又若々しい主婦が生き生きと皿の柱を蹴飛ばしそうだ。
 その横は花屋である。花屋の娘は花よりも穢れていた。だが、その花の中から時々馬鹿げた小僧の顔がうっとりと現れる。その横の洋服屋では首のない人間がぶらりと下がり、主人は貧血の指先で耳を掘りながら向いの理亭の匂いを嗅いでいた。その横には鎧のような本屋が口を開けていた。本屋の横には呉服屋が並んでいる。そこの暗い海底のようなメリンスの山の隅では痩せた姙婦が青ざめた鰈のように眼を光らせて沈んでいた。
 その横は女学校の門である。午後の三時になると彩色された処女の波が溢れ出した。その横は風呂屋である。ここではガラスの中で人魚が湯だりながら新鮮な裸体を板の上へ投げ出していた。その横は果物屋だ。息子はペタルを踏み馴らした逞しい片足で果物を蹴っていた。果物屋の横には外科医があった。そこの白い窓では腫れ上った首が気惰るそうに成熟しているのが常だった。
 彼はこれらの店々の前を黙って通り、毎日その裏の青い丘の上へ登っていった。丘は街の三条の直線に押し包まれた円錐形の濃密な草原で、気流に従って草は柔かに曲っていた。彼はこの草の中で光に打たれ、街々の望色から希望を吸い込もうとして動かなかった。
 彼は働くことが出来なかった。働くに適した思考力は彼の頭脳を痛めるのだ。それ故彼は食うことが出来なかった。彼はただ無為の貴さを日毎の此の丘の上で習わねばならなかった。ここでは街々の客観物は彼の二つの視野の中で競争した。
 北方の高台には広々とした貴族の邸宅が並んでいた。そこでは最も風と光りが自由に出入を赦された。時には顕官や淑女がその邸宅の石門に与える自身の重力を考えながら自働車を駈け込ませた。時には華やかな踊子達が花束のように詰め込まれて贈られた。時には磨かれたシルクハットが、時には鳥のようなフロックが。しかし、彼は何事も考えはしなかった。
 彼は南方の狭い谷底のような街を見下ろした。そこでは吐き出された炭酸瓦斯が気圧を造り、塵埃を吹き込む東風とチブスと工廠の煙ばかりが自由であった。そこには植物がなかった。集るものは瓦と黴菌と空壜と、市場の売れ残った品物と労働者と売春婦と鼠とだ。
「俺は何事を考えねばならぬのか。」と彼は考えた。
 彼は十銭の金が欲しいのだ。それさえあれば、彼は一日何事も考えなくて済むのである。考えなければ彼の病は癒るのだ。動けば彼の腹は空き始めた。腹が空けば一日十銭では不足である。そこで、彼は蒼ざめた顔をして保護色を求める虫…

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