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『水野仙子集』と其他
『みずのせんこしゅう』とそのほか
作品ID48807
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店
1995(平成7)年4月10日
初出「文章世界 第十五巻第六号」博文館、1920(大正9)年6月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者hitsuji
公開 / 更新2022-05-31 / 2022-04-27
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

         ×
 水野仙子の集が、今度叢文閣から公にせられることゝなつた。喜ばしいことである。かの女は純粋に『文章世界』をその故郷にして、そして文壇に出て行つた人である。私は『暗い家』だの、『お寺の児』だの『徒労』などを思ひ出さずには居られない。

 純な、正直な性質と、真面目な気分と、飽まで進んで行くべきところに進んで行く心と――。

 私の家には、一年とはゐなかつた。五月に来て、十二月には、もう別な家を代々木の奥の、林に近いところに持つてゐた。狭い二間きりの家、松の音の常にきこえるやうな家、八ツ手の葉のバサバサする家、そこに私はかの女を置いて見ることが好きだ。無邪気の文学書生として、専念に芸術に熱中した娘として。私はその時分、よく出かけて行つては言つた。『好いぢやないか。かうして、静かに、専念に、芸術に耽り得るといふことは――。なまなか、実人生に触れるよりは、落附いてゐて、何んなに好いか知れない』

 しかし、矢張、触れずにはゐられなかつた実人生であつた。私はその時かの女がもう少しさうして落附いてゐることを何んなに望んだか知れなかつた。もう少し丈夫な羽翼の生へるまでは、自分から自分を護る事の出来る力の湧き出して来るまでは――。かの女はしかし私の言ふことをきかなかつた。かの女は一目散に実人生に向つて触れて行つた。

 その実人生に向つて触れて行つたことが、かの女に何ういふ影響を来したか。それを私は今此処で言はうとはしてゐない。しかし、少くとも、かの女の芸術が一時そのために頓挫したのは争ふべからざる事実であつた。実人生はかの女に取つてかなりに辛く且つ重荷であつたらしかつた。実際に触れゝば触れるほど、芸術の鏡が曇つて行くといふことは、今も昔も変るところがなかつた。

 しかしかの女が、さうして一度浸つた実人生の中から、常に浮び出さう浮び出さうと心がけてゐたのは、雄々しかつた。かの女は倦まずに作を続けた。

 私の考では、矢張、『道』だの、『輝ける朝』などよりも、初期の『四十余日』や『お寺の児』や『暗い家』などの方が光つてゐるやうに思はれた。少くとも、初期の作には、小さな反感がなかつた。何でも素直に、素直に受け入ることが出来た。それと言ふのも、病気になつたり何かした為めもあるであらうけれども――それは察してやらなければならないけれども、『輝ける朝』の尖つた神経や、『沈める日』の自己に対する鞭などは、決して大きいといふ感を読者に与へない。『道』などでも、ある点までは、初期のまことを失なはないけれども、何処か自己を弁護したやうなところのあるのを見遁すことが出来ない。矢張、私は、後期の作では、『お三輪』などにあらはれた作者の静かにさびしい姿をなつかしまずにはゐられなかつた。

 自己の生活に捉へられるのも結構だ。それを私は咎めるのではない。何故と言へば、すべては…

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