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あさぢ沼
あさじぬま
著者
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十二巻」 臨川書店
1995(平成7)年2月10日
初出「令女界 第五巻第一号」1926(大正15)年1月1日
入力者tatsuki
校正者津村田悟
公開 / 更新2018-05-13 / 2018-04-26
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 私は知つてゐる人に逢はないやうに沼の向う側を通つて行つた。なつかしい沼、蘆荻の深く生ひ茂つてゐる中に水あほひの濃く紫に咲いてゐる沼、不思議な美しい羽色をした水鳥の棲んでゐる沼、私の恋を育てゝそして滅して行つた沼――さびしい田舎の停車場を下りて、百姓家について幾曲も曲つた路を通つて、それからずつと此方へと歩いて来て、その銀色した沼の一部を眼にした時には、私は一種の顫えを心に感じて、ぢつとそこに立尽した。
 今は冬だ。そこには水あほひの濃い紫がありやう筈はない。またそのなつかしい水鶏の声を耳にしよう筈はない。また私達の恋を世間からかくして呉れた蘆荻や水草の緑がありやう筈はない。あたりはさびしくなつてゐる。曾てそこにさうした恋が燃えたなどとは夢にも思へないほどあたりは冬に包まれて了つてゐる……。しかし私はそれを見に来たのではないか。その跡を、さういふ風にさびしくなつてゐる沼を見に来たのではないか。
 幸に私は誰にも逢はずに、逢へば必ずなつかしさうに向うから寄つて来て、その時はぢかには話さぬにしても、あとでいろいろと噂の種にはせずには置かないであらう村の人達にも逢はずに、丘の松の林の中の路をずつとYの城跡の方まで出て行くことが出来た。静かな初冬の日影がそこにあつた。私は纔かに残つてゐる封建時代の石垣のところに来て、誰にも見られぬやうにそこに草を籍いて坐した。



 私は灼熱したかの女の眼をそこに見得る。またその眼の何を要求してゐたかを見得る。否、その柔かな腕が、またその美しい心が、いかやうにこの身に向つて触れて来ようとしてゐたかを見得る。そこにはあらゆるものがあつたではないか。詩があつたではないか。絵があつたではないか。あらゆるものを捨てゝ捨てゝ顧みない熱情があつたでないか。帝王の力でも何うすることも出来ない何物かがあつたではないか。私はそれをぢつと見ようとした。あの時と同じやうに見たり感じたりしようとした。
 あの時、私達は何を言つたらう。何んなことを言つたらう。それは昔から言はれて来てゐる言葉そのまゝではなかつたらうか。われは爾を愛す――さうだ、要するに唯それだけではなかつたらうか。私はこんなことに頭をくり返しながら、下に横へられた静かな日影のチラチラした沼を眺めた。
 私はその時を思ひ起した。初めて沼から此方へとやつて来た時のことを思ひ起した。あの蘆荻のさやぎ――二つの恋の魂の中までも静かに入つて来ずには置かないやうなあの長い葉と葉のすれ合ひ、舟の動く度に女の髪でも引摺るかと思はれるやうな半は倒れた蘆のなびき、をりをりは黒い水の中に魔のやうに藻が動いて、美しい紫の水あほひすら何か不可思議の世界を私達に暗示してゐるとしか思へなかつた時のことを思ひ起した。
 私達は終にはある恐怖に襲はれたやうにして急いでそこから出て来た。私達の顔は蒼白くあたりに際立つ…

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