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雨の日に
あめのひに |
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作品ID | 48814 |
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著者 | 田山 花袋 Ⓦ / 田山 録弥 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店 1995(平成7)年4月10日 |
初出 | 「文章世界 第十二巻第十一号」1917(大正6)年11月1日 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | hitsuji |
公開 / 更新 | 2021-03-09 / 2021-02-26 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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体感
学んで積んだ知識で物を言つてゐるやうな人達が多い。そのために、議論が唯の議論で続いてゐて、互にその主張を持して、最終まで理解が来ないで物別れになる。かうした傾向は決して好いことではない。またいくらやつてもつまらないことである。酔ぱらひが互に声を張り上げてその相手を罵つてゐるやうなものである。
学問は必要だ。しかし、その学んで得たところを実行に移して行くところに、その学問知識の価値があらはれて来るのであつて、実行なしの知識は、徒に人を小怜悧にするばかりである。いくら知つてゐたからとて、実際の体感から得たものでなければ、それはまだ噂話や世間の物語程度以上に出ることが出来ない。
伝統主義でも、自然主義でも、人道主義でも、唯知識と感じだけを言つてゐるのでは駄目だ。忽ち流されて行つて了ふ。噂話や世間の物語以上に、箇に又は箇の浸染した全に到達しなければ、本当の意義をつかんだとは言へない。自然主義は、今日では、人道主義とは丸で正反対のやうに言はれてゐるけれども、又は殊更に冷酷にメスを振ふのを大方針としてゐるやうに言はれてゐるけれども、決してさうではなかつたのである。自然主義の精神には、非常に深い人道主義が横つてゐたのである。であるから、新時代の作者の作などにも、私達が十年前にやつたやうな気分や感じを往々にして認めることがある。畢竟、人道主義、伝統主義、自然主義などといふことは、学者が、体感の十分でない学者が机の上で議論してゐることであつて、極く細かい小さな区別の上に互に異を樹てゝゐるやうなものである。
しかし、人々の特質に由つて、或は自然主義から入つて行くものもあらうし、或は伝統主義から入つて行くものもあらうし、人道主義から入つて行くものもあらうから、何方から入つて行つたツて差支へない。要は唯その深味に、もう一歩先に入つて行くか行かないかにある。体感に生きるか生きないかにある。
正宗君の『随筆』
正宗君のをり/\発表する随筆の中には、考へて見なければならないやうなことが多くある。先月の『我善坊にて』の中にある、昔と今との間に一毫も加はつたものはないといふ感想は正宗君らしくつて面白かつた。捨てた形が面白かつた。しかし、私などには、かうして捨てゝゐられないやうな気がする。正宗君にしても、かうして捨て放しに捨てゝゐるとは私には思はれない。否、かう捨てたやうに言つてゐるところに捨てないところがあるのではないか。
空
死を涅槃とし、大歓喜とした釈迦の心は、一面から言へば、幻影に捉られてゐるやうにも取れる。美しい幻影の夢を見てゐるやうにも思はれる。しかし釈迦ほど空を説き、無を説いた人はない。あの浩瀚な大般若数百巻は、悉く空を説いてゐるのである。幻滅などは何遍も何遍も繰返してゐる。それほど無を説き、空を説き、幻滅を説いた人に最後に死に対するその大きな歓喜境が…