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ある時に
あるときに
作品ID48816
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店
1995(平成7)年4月10日
初出「電気と文芸 第三号」電気文芸社、1920(大正9)年10月1日
入力者tatsuki
校正者hitsuji
公開 / 更新2021-02-07 / 2021-01-27
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 物事がすべてはつきりときまつてゐないといふことが面白い。善いが善いでなく、わるいがわるいでなく、幸福が幸福でなく、不幸が不幸でないといふやうに、すべて、何んなことでも、有と無と、無と有とが背中合せになつてゐる。
 世の中が混沌として捕捉することが出来ないやうに見え、人生が雑多紛々で、何れが本当で、何れがうそだかわからないやうに見え、また、人間の心の趨くところが、果して何うなつてゐるかわからないやうに見えるのも皆なそのため、物事がはつきりときまつてゐないところから起つて来てゐるに相違ないのである。しかも、その反対に、物事が手に取るやうにはつきりきまつてることがないでもなかつた。善の報酬は必ず幸福に、悪の報酬は必ず不幸と言つたやうに、きつぱりときまつてゐるやうな場合もないではなかつた。そこでは『自然』がある理由から、厳として人間に臨んでゐるかのやうに見える。
 これに由つても、『自然』は容易に見すかすことの出来ないものであることがわかる。また、その奥の幽深な境には、一にして一ならず、二にして二ならずといふやうな、また、その反対に、一は一、二は二と言つたやうな、端睨すべからざるものがかくされてあるといふことがわかる。否、更に一歩を進めて見ると、その端睨すべからざるものを、此方の――自己の矢張同じく端睨すべからざるもので、ぴたりとうつし取つて見るやうな境に至らなければ本当でないといふことが考へられる。そしてその境に至つて、始めて『自然』は、深くもなければ浅くもないその『自然』をその人の前にあらはして来るのである。
 しかし何うも、その境が難かしい。そこまで入つて行くのがむづかしい。何故なら、其処は理由でないからである。また思想でないからである。箇人とその小さな経験でないからである。さうかと言つて、それは気分でもなければ、感覚でもないからである。否、更に言ひかへれば、其処はさうしたあらゆるもの――理由、思想、小さな経験、気分、感覚、さうしたものをすべて包含してゐて、そしてその上に超越したやうなものであるからである。
 否、さうした、理由、思想、小さな経験、気分、感覚が、いざとなればその『自然』に肉迫して行く必要な材料として役立つたのであるから面白い。

 もし、これが、少しでもきまつてゐれば、きまるやうな傾向があるとすれば、さうすれば『自然』はもうぐつと小さくなつて、『捉えられた自然』になつて了ふのである。また人生も世間も存外見え透いたものになつて了ふのである。
 因果の理法などから言つて見ても、善の報酬は必ず幸福、悪の報酬は必ず不幸ときまつて了つては、それでは面白くない。善人必ずしも栄えず、悪人必ずしも悪報を受けぬところがあつてこそ始めて面白い、微妙な捕捉すべからざる味が出て来るのである。ところが多くの人達は、それを統一させやうとする。さういふ法則があるなら、法則…

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