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ある日
あるひ |
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作品ID | 48819 |
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著者 | 田山 花袋 Ⓦ / 田山 録弥 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「定本 花袋全集 第二十二巻」 臨川書店 1995(平成7)年2月10日 |
初出 | 「婦人公論 第五年第九号」1920(大正9)年9月1日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 津村田悟 |
公開 / 更新 | 2019-03-08 / 2019-02-22 |
長さの目安 | 約 20 ページ(500字/頁で計算) |
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その時丁度午飯のあと片附をすませた妻は、私達の傍を通つて、そのまゝ居間の方へと行つた。私は男の子供達に英語を教へながら、裏庭の深い緑葉を透してさし込んで来る暑い夏の日影を眺めた。庭にはゑぞ菊の毒々しく赤いのが日に照らされてゐるのが見えた。
妻の入つて行つた居間の方にも、表の方に面して樹木の多い庭が凉しく開かれてあるのであつた。そこには娘や幼い子供達が寝そべつたり何かしてゐるのであつたが、不図、誰か見馴れない闖入者でもやつてでも来たやうに、何となくあたり物騒がしい気勢がして、一番小さい女の児は、やがてばたばたと此方へ逃げて来た。
『おや、まア、めづらしい!』
つゞいてかう吃驚するやうな妻の声がきこえた。
滅多にきたことのない客のやつて来たことが、此方にゐる私にもそれとはつきり飲込めた。『まア、何うぞ、あちらに。此処はひどう御座いますから……何うぞ』かう言つて妻が頻りに客を座敷の方に請じやうとしてゐるのがきこえた。しかも客はそれを遠慮してか、それともまた、滅多にはやつて来なくとも、ずかと居間に入つて来ても差支ない親しい身であるのを示さうとしてか、容易に座敷の方へ行かうとしないやうな気勢を私は耳にした。
『誰だらう?』
かう私は思つた。
しかも、妻が頻りに、それでなくては挨拶が出来ないといふやうに、堅く執つて放さなかつたので、客も為方がないといふやうに、『さうですか、それぢや御免を蒙りませうかね』かう言つて、立つて座敷の方へ案内されて行つた。
私にはその客の誰であるかが、まだはつきりわからなかつた。
妻はやがて此方にやつて来た。
『誰?』
『お時さんですよ』
『お時? それはめづらしいな……一人かえ?』
『九歳位の女の児をつれていらつしやつた――』
『ふむ、それはめづらしい……。何年振だかわからない。何うした風の吹き廻しかな? 今、此処をすますと、すぐ行くから』かう言つて、私は子供達に教へてゐた英語を早く、成るたけ早くすませるやうにした。
妻が茶や、菓子を運んで行つたあとから、私も入つた。
『やア』
『まア、をぢさん!』
互ひに探すやうに、または互ひに互ひの間に過ぎ去つた時をじつと見詰めるやうに、さう言つたきりで、暫しは何をも言はなかつた。私は私の胸に今日まではつきりと印象されて残つてゐる若い姪の代りに、既に老いた、白髪のいくらか交つてゐる、小さな庇髪に結つた、色の黒い主婦を発見した。伴れて来た女の児は、メリンスの派手な着物に紋羽二重の扱帯をしめて、可愛い顔をしてゐた。
『よく来たね……。お前が来やうとは思はなかつた……それにしても、もう、何年逢はないだらう?』
『さうですね。もう十年以上お目にかゝりませんね。同じ東京にゐるんだからと、いつも思はないことはないんですけれども、貧乏ひまなしで、それに、子供が大勢をりますからね。ちよつと出るにも、中…