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ある日の印旛沼
あるひのいんばぬま
作品ID48820
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店
1995(平成7)年4月10日
初出「新青年 第一巻第十号」1920(大正9)年9月13日
入力者tatsuki
校正者hitsuji
公開 / 更新2021-03-30 / 2021-02-26
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私達は茣蓙を持つたり、煙草盆を持つたり、茶器を携へたりして、午前の日影のをりをり晴れやかに照りわたる間を土手の方へと行つた。水田の中では水鶏の声が頻りにきこえた。
『コ、コ、ココ、コ、コ』
 いかにも水に近い感じであつた。沼はまだそれと見えてはゐなかつたけれども、あたりの地形から押し、土手のさまから押して、それの近いのが私にもそれと知れた。私達はまだいくらか朝露の残つてゐる田の畔の草の中を縫ふやうにしたり、また時には田から田へと流れ落ちる小さな水を跨いだりして、漸くその大きな、夏草の一面に繁つた土手へと達した。
『ほ!』
 かう私は思はず叫んだ。何故と言ふに、沼が始めて私の前にあらはれたからである。見たいと思つてわざわざやつて来た沼が、滅多に人のやつて来ない沼が、またはいかにも錆沼とか浅芽沼とか隠沼とか言はれさうな沼が、夢の中で見た不思議なシインか何ぞのやうに私の前にあらはれて来たからである。
 しかし想像は見事に外れた。私はもつと広い感じを与へる沼を思つて来た。また、土手からすぐ水になつてゐる沼を思つて来た。もつと違つた沼を想像して来た。
『水までは随分遠いんですね?』
 かう私は思はず言つた。
『渇水だでな』
 かう前に立つた艫を擔いだ船頭が言つた。
 私の前に立つたI君は、
『本当だね。えらく減つたね。二三日前には、こんなぢやなかつたがな』
『閘門を明けたでさ、昨日』
『あゝ、それでだ』
 沼に連接した大きな河の水の調節を掌るために出来た閘門は、これから十町ほど下つたところにあるといふことであつた。私達は船頭のあとについて行つた。
 I君は訊いた。
『船は何処にあるんだえ?』
『西でさ』
『あんなところかえ、それは遠いな』
『なアに、わけやありませんや』
 船頭はずんずん土手を歩いて行つたが、その閘門がそれと指さゝれるあたりまで来て、そのまゝ横に土手を下りて行つた。次第に、川楊のしげりや、蘆荻や、ぐちやぐちやと踏めば動くやちなどがあらはれ出して来た。蛙が何疋となく足元から飛立つて水音を立てた。藺のツンツン生えてゐるその尖頭に黒いヤンマが留つてゐて、その羽に日影の当つてゐるのが、何とも言へず沼の静けさを私に思はせた。紫の――紫と言つても桔梗の紫などとは違つた水あほひの花を見た時には、頭がキイと緊められるやうな感じがした。幼時の追憶が湧きあがつて来た。
 沢瀉や水あほひの緑葉は、次第に多くなつて行つた。蘆荻も川楊も次第に深くなつて行つた。後には私達は尻端折をして、跣足になつて、下駄を手に持つて、水の中をざぶざぶこいで行かなければならなかつた。しかしそれはさう大して長い間でもなかつた。やがて私達は舟の置いてある場所へと達した。
『やア、これはえらい目に逢つた!』
 I君はかう言つて、足を洗つて、手拭で拭いて、そして舟の中に入つた。持つて来た茣蓙は忽ちそこに…

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