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海をわたる
うみをわたる
作品ID48830
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十一巻」 臨川書店
1995(平成7)年1月10日
初出「週刊朝日 第七巻第十五号」1925(大正14)年4月1日
入力者tatsuki
校正者hitsuji
公開 / 更新2021-05-13 / 2021-04-27
長さの目安約 20 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 長い間心に思つたT温泉はやつと近づいた。其処に行きさへすれば、あとは帰つたやうなものである。そこからFへは三里、その埠頭には海峡をわたる連絡船が朝に夜にちやんと旅客を待つてゐて、その甲板の上に乗つて居さへすれば、ひとり手にその身は向うへ運ばれて行くのである。W町からの乗合自動車の中でKはほつと呼吸をついた。
「明日の朝の連絡船では、ちよつと忙しいね」
 一緒に長いこと伴れ立つて歩いて呉れた画家のSは、それを聞くと、一種の微笑を顔に浮べて、
「朝はちよつと無理ですね。何うしても夜のになりますね?」
「さうですかな?」
「まア、T温泉でゆつくり休んでいらつしやる方が好いですね」
 それは早く帰国されたいのは無理はないけれども、私を御覧なさい!、此処まで来てゐながら、国にも帰れずに、Fの埠頭まで貴方を送り届けると、そのまゝすぐ元の方へ引返さなければならないのではありませんか。Sの言葉にはさうした心が籠められてあるのがKにもわかつた。
「さうですね。君にも随分厄介をかけましたね。何しろ北はハルピンから蒙古のパインタラまで行つて、引返して朝鮮では金剛山まで行つて頂いたんですからね。何うです? 君も、海を渡つては――?」
「ちよつと行つて来るかな? 一週間かければ好いんですからな」故国に置いてある細君のことなどを思ひ出したらしく、それが出来れば! と言ふやうな顔をSはしてゐたが、「秋になつてからゆつくり公然に暇を取つて行きます。何しろ随分長く社をあけてゐるんですから……。もう夏の海水浴のポスタアも描かなければならなくなつてゐるんですから。でも、お蔭で、金剛山も慶州も見て好かつたです。両方とも行きたい行きたいと思つて行けなかつたところですから……」
「本当に厄介をかけた。お蔭で、どんなに楽に廻れたか知れやしませんよ」
「いゝえ」
 Sはかう言つたが、笑ひながら「でも、堅い旅行でしたね。誰にきかれても恥しくありませんね。女には振向いても見なかつたんだから」
「…………」
「貴方には意想外だつた」
「何と言つて好いのかな? お気の毒でしたツて言つて好いのかな?」
「この前に来たO君なんか盛んなものでしたね? あれでも困るが――」
「僕でも困るといふわけですね」
 Kはわざと大きく笑つて見せた。
 自動車は頻りに走つた。滑かな路である。両方に靡きわたつてゐる山は漸く尽きて、向うには海を持つた野がそれと次第に展開されて来てゐた。車内にはW町からF町へと客に伴れられて芝居を見物に行く田舎芸者が三人ほど乗つてゐたが、声高に笑つたり、戯談半分に客の膝を打つたりして顫りにわるくはしやぎ立てゝゐた。向うからと此方からすれ違ふやうになつてゐる自動車の立場では、女達は下りて、サイダを客に買つて貰つて、その残つた一二本を運転手や車掌にわけてやつた。



 T温泉はKの眼にもさう大して…

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