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閑談
かんだん
作品ID48837
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十三巻」 臨川書店
1995(平成7)年3月10日
初出「随筆 第二巻第八号」1924(大正13)年9月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者岡村和彦
公開 / 更新2019-03-08 / 2019-02-22
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私のこれまでに見て来たところでは、芸術をやるものは多くは無であるやうである。無為、無目的、無慾――従つて多くは虚無的傾向を持つてゐる。かれは金にも眼を呉れない。栄華にも心を奪はれない。社会の慣習にもさう多くの注意を払はない。従つて辞令に巧みでもなければ、情誼にも捉はれない。思ふことはドシドシ言つて了ふし、いやなことはいつでも正直にいやだと言つて了ふ。要するに、普通社会から見れば非常に我儘である。我儘者である。現に私なども今だに我儘者として親類や知己から呆れられてゐる。『もう、あの年になつたんだから好加減に治りさうなもんだがな』かう到るところで言はれてゐる。
 ところが、私はその反対で、その我儘があればこそ! その性急があればこそ! その無形があればこそ! と実はその治らないことを自分の生命にしてゐるのである。それだから今でも女にも惚れることも出来れば、小説を書くことが出来ると思つてゐるのである。或は多少我田引水かも知れないが、子供の時の心持の今でもそのまゝに残つてゐるのを寧ろ貴とくも喜ばしともしてゐるのである。
 これが世間並に平らにされて了つて、栄華を欲したり金を欲したりしたらオヂヤンである。他の眼色を見ることばかりが巧くなつたり、人にだまされぬことばかりが上手になつては、それは経路や閲歴の奴隷になつたことでさうなつたが最後、その物を見る眼は霞み、その物を判断する定規は曲り、何んなにすぐれたことでも、はつきりとその瞳には映らぬことになる。さうなることは堪らない。所謂物のわかりの好い爺になることは私には堪らない。矢張怒る時には怒りたい。泣く時には泣きたい。笑ふ時には笑ひたい。苦労人とか世間人とか言ふ名を奉られて、泣きたい時にも泣かずにゐるやうなハメには陥りたくない。
 大抵の人は六分七分で[#挿絵]を抑へてゐる。八分と出て行かない。何故といふのに、それは損だからである。黙つてゐる方が得だからである、つまり理智が万能の自然を圧した形である。それも場合に由てはわるくはあるまい。私でもさういふ風に身を持してゐる場合もあらう。しかし私の願ひとしては、もつと正直に出て行きたい。思ふまゝを言ひたい。はつきりとした態度を取りたい。しかしさうした態度を取つたために、他から意見されたことが度々ある。さういふ時には、きつとかう言はれる。『あなたは性急だからいけない』『あなたは正直だからいけない』『馬鹿正直といふことがあるからね。あまり正直なのも名誉にはならないよ』かう言はれると、私はいつもしよげて黙つて了ふ。
 私もその六分七分の[#挿絵]の好いことを知らぬではない。自分に取つて得であることをも知つてゐる。しかし何うしても私にはそれが出来ない。私は何処まで行つても私しきやない。変らない。世間並に平らにされない。
 私の今まで見て来たところでは、芸術に携つてゐる人は、大抵皆なさ…

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