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黒猫
くろねこ
作品ID48858
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店
1995(平成7)年4月10日
初出「電気と文芸 第二号」電気文芸社、1920(大正9)年9月1日
入力者tatsuki
校正者hitsuji
公開 / 更新2021-04-15 / 2021-03-27
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 この作は非常に面白い。しかし何故面白いのか。何故かう心を惹くのか。さう思つて考へて見ても、何うしてもその理由がわからないやうな場合がよくある。例の芭蕉の『昼見れば首筋赤きほたるかな』などもその一つである。非常に面白いけれど、その面白い理由が、説明しようとしても容易に出来ない。(不思議なもんだなア、芸術は?)かう私は思はずにはゐられなかつた。
『かへつて、説明出来ないやうな芸術の方が、本当なんぢやないんでせうか。すぐ見透かされないやうなのが好いんぢやないんでせうか』
 かうある人は私に言つた。
『さア、さうはつきり言つて了つて好いか何うかわかりませんけれど――』
 かう言つて私は深く考へて見た。実際、さうばかりは言へない。説明の出来るものにすぐれた芸術はないことはない。決してないことはない。それからまた、一方から考へて見ると、時の力がその作を平凡にして了ふものもある。また、その反対に、いつまで経つても、新しく Moderne であるものもある。そしてその理由を考へる段になると、いつも大抵はわからなくなつて了ふ。今更不思議なのは芸術だ……。

 知識の進んで行くことを芸術は要求する。あらゆるものを知ることを、あらゆるものに触れることを、またあらゆるものを理解することを芸術は我々に要求する。しかもその要求通りに知識が進み理解が出来て来ると、いつの間にか、その芸術は[#挿絵]もう此処は俺のゐる場所ではない[#挿絵]と言つて、さつさと遁げ出して行つて了ふ。何うして好いかわからないのが芸術である。何うしたら、本当に芸術が掴めるのかわからない……。
 それは、真剣になり、真面目になるといふことは、人工の方面から芸術といふものに迫つて行く第一の大切な修練であることに私とて異存はないけれども、しかも、真面目な、真剣なところばかりに芸術はゐはしない。もつと軽い気分のところにも、ふざけた気分のところにも、堕落した心の中にも、時にはまたこんなところにと思はれるやうに溷濁した空気の中に、知らん顔をして芸術が蹲踞つてゐるやうなこともある。だから、労働問題や、経済問題の中にも、芸術は住んでゐないとは限らない。しかし、いつまでもそこに縛られてゐるやうなものではない。イヤになると、いつでも掴へやうとする指の間から、つるりと滑つて遁げて行つて了ふ。
 だから、いかに天才のある作家でも、その一生を通じて見ると、油の乗つてゐる時と乗つてゐない時とがある。芸術が来てぴつたりはまつてゐる時とゐない時とがある。トルストイの一生などを考へて見ても、それがよくわかる。

 何処から来るのか、それはわからない。それは何処からこの我々が来たかわからないと同じやうに。また何処に向つて我々が去つて行くかわからないと同じやうに。従つて、その出来る、醸される形がはつきりわかつてゐないと共に、そのあとに残される、朽ちず…

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