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解脱非解脱
げだつひげだつ
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店
1995(平成7)年4月10日
初出「文章世界 第十三巻第五号」1918(大正7)年5月1日
入力者tatsuki
校正者岡村和彦
公開 / 更新2019-06-30 / 2019-05-28
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

解脱の度数

 解脱にも非常に度数があると共に、真剣とか、一心とか言ふことにも矢張度数がある。更にそれを幾種類に別つことが出来る。従つて口で言ふことはわけはないが、そのあらはれた形を見ると、千差万別である。容易に言説することの出来ないのは其処にあると思ふ。

仮面

 真剣と真面目とを正面から振り翳したとて、それが技巧や、身ぶりや、表情や、世間に対する仮面に立つて了つては駄目である。

真剣の程度

 真剣や真面目は、その背景に持つたものゝ如何に由つて、その価値がきまる。
 それは、いかに他から見ても可笑いことであり、噴き出さずにゐられないやうなことであつても、それに引摺られて行くやうなものでなくてはならない。他の笑殺や嘲殺を圧倒して了ふやうなものでなければならない。いかに真剣でも、識者から笑はれたりする程度の真剣は、その燃焼の度数が足りないからであらうと思ふ。

真面目と笑ひ

 真面目を守本尊にして、驀地に進む形はまだ対世間である。決して絶対ではない。真面目は笑や、戯談や、滑稽や、さういふものゝ中からも捜し出して来られるやうでなければいけない。

自己と世間

 対世間の作や、批評や、言説の多いのは、いつの時代にもめづらしいことではないが、此頃は殊にそれが多い。作に当気のないものは尠い。衒気のないものは尠い。批評にもはつきり物を言つて見せたやうなものが少い。皆な何処かで妥協したり、好い加減にしたりしてゐる。でなければ外国の思想を借用して、世間に対してゐる。それほど世間に迎合しなければならないものであるか。否、そればかりではない。今の青年で、世間より以外に自がある筈がないと言つてゐるものさへある。世間即ち自己であればそれで足りるやうな青年が多い。それでゐてこれ等の青年は妥協主義と言はれてゐることを耻ぢてゐる。

対世間の作者

 同じやうな型にはまつた作、流行を趁つたやうな作、チヤンと構図と構成のきまつたやうな作、さうした作の多いのは、つまり対世間の作者が多いからである。誰に読んで貰はなくとも、世間に見て貰はなくつても、自分の持つたものを出す、唯出すと言つたやうな作がないのも矢張そのためである。余り好い空気ではないと思ふ。

外国の借着

 外国の思想を捨て、外国の借着を捨て、外国のコンポジシヨンを捨て、外国の表現を捨てゝ了はなければ――幣履のやうに惜し気もなく捨てゝ了はなければ、決して本当の、独創の日本の文学は生れて来ない。
 新しい文学のあつてから、既に五六十年を通過した。作者の群もかなりに年を取つた。もう、本当に、日本人、日本人の生活が書けても好かりさうなものだ。しかし、さうしたものが尠い。矢張、新しいといふことゝ、気がきいてゐるといふことと、表現の如何と、技巧の如何とに捉へられてゐる。現に、さういふ自分などもその群に洩れない。情けないことである。

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