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月明夜々
げつめいよよ
作品ID48861
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店
1995(平成7)年4月10日
初出「文章世界 第十四巻第十一号」博文館、1919(大正8)年11月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者hitsuji
公開 / 更新2022-06-13 / 2022-05-27
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

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 この頃の文壇の傾向は全く技巧的になつた。わるい意味に於ての一昔以前への復帰である。宇野氏の作物のごとき、芥川氏の作物の如き――。
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 技巧をもつて人を惹きつけるといふことも、さう楽なことではないけれど、作者自身から言つて、さうしたことに倦む時が来ないであらうか。もつと本当のことを求むる心――自己をそのまゝ出さずにゐられないやうな要求を心に感じて来ることはないであらうか。或はさうした技巧家は、その心すべてが技巧そのものになつて了つてゐるので、さうした要求は竟に起すことがなくて、すんで了ふのであらうか。
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 常に自己ばかりを問題にしてゐる人々、自己のことは全く棚に上げて置いて、他の世界即ちお話の世界にのみ生きてゐる人々の別を私は考へずにはゐられない。何故なら、かうしたところから、人生派と芸術派の区別が起つて来てゐるから。技巧派と内容派の区別が萠して来てゐるから――。
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 自己ばかりを問題にしてゐる人も始末に困るが、芸術ばかりに没頭して、それより他に人生がないやうに思つてゐるものも私には余り賛成が出来ない。矢張此処にも有にして無、無にして有、自己にして自己にあらず、芸術家にして芸術家にあらずといふところがなければならないのを私は見る。
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 言つたり、語つたり、書いたりするものよりも、更に一歩先きのもの――すぐれた芸術は常にそこに眼をつけてゐるものである。時に由つては、書いてあることとは丸で反対のことを表はさうとしてゐるやうな場合なども、すぐれた芸術には、よくあるものである。
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 構図といふことは、誰にも大切なことである。つまり自然の構図――何うしてもさうなつて行かなければならない構図、さういふところに眼を着けてゐるものの此頃尠くなつたのは遺憾だ。構図はことに読後の気分に非常に影響するものである。構図にムラがあつたり、疎密があつたりすると、統一された感じは、全く破られて了ふものである。
 その次に、作に必要なのは線である。しかしそれは筋とは違ふ。細いプラチナのキラキラするやうな線もあれば、純金のイヤに太いケバケバした線もある。銅線もあれば、鉄線もある。紙に似た線もある。そして、これ等の線が一番先に読者にある感じを与へる。或は細い感じ、太い感じ、鋭い感じ、鈍い感じと言ふやうに――。そしてこの線がいかに作を貫いてゐるかといふことがその作の価値の十の八九を占める事となる、しかし読者にも多くはこの線を注意しないやうな人が多い。
         ×
 吉田氏の『熊のわな』はわるい作ではない。しかし、惜しいことにはこの構図だの、線だのと言ふものについて多く考へを致してゐない。珍しい客が出て来てから折角引寄せられた読者の心が、平凡な人生の一事実――単なる一…

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