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現代と旋廻軸
げんだいとせんかいじく
作品ID48862
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店
1995(平成7)年4月10日
初出「文章世界 第十巻第八号」1915(大正4)年7月10日
入力者tatsuki
校正者hitsuji
公開 / 更新2021-05-28 / 2021-04-27
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 現代といふ言葉は永久にある言葉である。永久は現代の無限の連続である。一つづゝ離して見れば現代になり、つゞけて見れば永久になる。そしてこの現代が永久になつて行くところに、一種の転換とか輪廻とか言つたやうなものがある。その境は私はをりをり考へて見た。
 その転換状態はちよつと烈しい潮流の中に巴渦を巻いてゐるやうな形である。ぐるぐると廻つてゐる中に、いつとなくその現代がなくなつて了つて更に新しい現代が始まる。そして時の潮の波は無窮にそれを繰返して行つてゐるのである。
 この転換状態の旋廻軸を注意するとしないとで、その人生観、宇宙観は丸で変つた形を呈して来る、注意する方は連続的で、しない方は刹那的である。そしてその刹那的の見方が、今の現代には多く勢力を持つてゐるやうに私には思はれる。つまり現代の無限の堆積を見ずに、単に現代の現象に忠実ならんとする形である。従つて外面的である。
 しかし人間は竟に竟に外面的のみであり得ないものである、最後まで外面的であり得るものは頗る稀である。いつか人間はその旋廻軸に触れずには居ない。
 旋廻軸は、時ではない。ないとは言へないが、時が主ではない。それを廻転させる力は別に根本にある。
 一たび旋廻軸に触れたものは、刹那的にのみ現代を見てはゐられなくなる。無限の現代の堆積の中に身を置かずにはゐられなくなる。現在に過去を発見すると共に、過去にもまた現在を発見する。過ぎ去つた時代が、単に過ぎ去つた時代でなくて、現在と同じ脈を打つて動いて行つてゐる時代であるといふことに気が附く。
 旋廻軸に触れた心持はさびしいものであると共に、厳かな冷かな静かな落附いたものである。これに触れると、今まで前にのみ見立てゐた現代がぐるりとひつくり返しになつたやうな気がする。現代の表面にあらはれてゐたあらゆるものが、一つ一つその前に陥没して了ふ。快楽も、解剖も、希望も何も彼も……。
 流転は確かだが、進歩だか退歩だかわからない。かう言つた人がある。またある人は、『それはわからないが、しかし進歩するものとして考へなければならない。そこに人生の真の意義がある』と言つた。
 またある人は、『考へると、進歩なんて言へないかも知れないけれど、しかし一歩、一歩、ごくわづかだけれど、丁度陸地が目に見えないほど長い年月の間に陥没したり隆起したりするのと同じやうに矢張進歩して行つてゐるらしい。人間が人間の踏台となると共に、時代が時代の踏台になつてゐるからね』と言つて笑つた。
 人間に取つて、または所謂現代に取つて、最も都合の好いことは、旋廻軸に於ける無限の陥没または忘却、または消失である。積み上げた記録も、研究も、智識も多くは利用されずに、新しい人、乃至新しい現代に埋められたまゝに引継がれて行く。
『兎に角、自分の経験したものでなければ承知が出来ない。古人が何んな豪いことを言つてゐ…

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