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心の絵
こころのえ
作品ID48864
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店
1995(平成7)年4月10日
初出「文章世界夏期特別号 第十五巻第八号」1920(大正9)年8月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者hitsuji
公開 / 更新2021-07-06 / 2021-06-28
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 いつまで経つても、また何処まで行つても同じであるこの長い人生、時には退屈して何か人を驚かすやうなことをして見たいと思ふことはあつても、さて、さうしてやつて見たところで、矢張同じやうに何うにもならない人生――。この退屈さの対症療法としては、何も好い薬はないけれど、止むなくばそれ、孤独、無為、無想、無念か。

『あるがまゝで好い、あるがまゝで好い……。それを何うにかしやうと思つたことが間違つてゐた』
 かういふ風に、誰でも一度は感ずるに相違ない。そこまでは誰でも行く。しかしそれから先何うなるか。あるがまゝで好い……それですましてゐられるか。すましてゐられる人もあるかも知れないが、すましてゐられない人もあるに相違ない。矢張、其処に行つても、あたりは混沌としてゐるに相違ない。無限の度数があるに相違ない。
 従つてそこが難かしい。持つたものをしつかり攫むことが難かしい。持つたものを持つたと思はないやうになれば好いのであるけれども、苟くも持つてゐる以上、それを持つことを意識しないわけには行かない。そこに難かしい関門がある。従つて、人はその関門まで行つて、それを開ける方法を知らないでよく引返して来る。

 事実と想像との区別、何れまでが事実で、何れまでが想像だかわからないやうな微妙の心のあらはれ、さういふところがそのむづかしい関門のあるところである。人は誰でも『宗教的神』になることが出来る。『基督』になることが出来る。そして、その心の境は、事実と想像の細かい融合から出来上つて来る。
 何が事実? この疑問はいつも人間をさうした境に伴れて行く。

 表面にあらはれただけでは、人間はかなりに単純である。またかなりに知的である。しかし、一度てんでに内部に入つて行くと、そこには丸で異つた光景がある。そこでは人間はさう単純なものではない、またさう知的なものでもない。苦渋な暗い影もあれば、陰惨な醜い皺もある。業火が凄じく燃えてゐるかと思ふと、本能の洪水が漲るやうに押寄せて来てゐる。かなりに辛い地獄の『絵』がそこに展げられてある。しかし、人間は成るたけそれに触れないやうに、やうにと心がけてゐる。何故なら、一度それに触れゝば、恐ろしい世界がそこにあることを知つてゐるからである。無意識的に知つてゐるからである。従つて、人間は表面しか知らずにゐるやうになる。知つてゐても何うにもならないやうになる。唯現実だけが問題になつて、内部のことは、全く触れずに打棄り放しにされてゐる。これでは、本当の人間といふことはわかる筈はない。事実と想像の触れ合つた細かい心の関門が通過されるわけはない。

 光と音響との関係を、事実と想像との上に持つて来て考へて見るのも面白い。何うしても表面にあらはれて来る事実の音響よりも、想像の光りの方が、底の底の不可思議をいち早く人間に暗示するものである。屹度、其処には何等かの…

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