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孤独と法身
こどくとほうしん
作品ID48866
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店
1995(平成7)年4月10日
初出「文章世界 第十二巻第九号」1917(大正6)年11月1日
入力者tatsuki
校正者hitsuji
公開 / 更新2020-08-19 / 2020-07-27
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 東京の夏は色彩が濃くつて好い。山や田舎と違つて、空気にもいろいろ複雑した色や感じがある。行かふ女達の浴衣の派手なのも好ければ、洋傘の思ひ切りぱつとしてゐるのも好い。朝蔭の凉しい中だけ勉強して、日影が庇に迫つて来る頃からは、盤[#挿絵]して暮らす。夕方近くなるとカナカナやみんみんが鳴き出す。それをきゝながら、行水をザツと浴びて、庭樹の下などを漫歩する。いかにも夏らしくて好い。
 樹の陰の深い処に、籐椅子を持つて行つて据ゑて、会心の書を読むのも亦夏の楽みの一つである。不思議にも此頃は仏教の本が手に上る。華厳は大抵読んだ。今は大般涅槃経に移つた。
 それにしても仏教は巧妙な心理の立て方をしたものだと私は思ふ。楞伽経の最後のところにある禁肉の理由は、トルストイの菜食論や其他の菜食説などよりもぐつと先きのところを言つてゐる。
 要するに、深い心理だ。心理を説いた立派な学問だ。大般涅槃経あたりに行くと、世尊がいかに唯我独尊であつたかといふことが愈わかつて来る。
 をりをり深い瞑想と歓喜に打たれて、持つてゐた本を下に置く。日を帯びた樹影がちらちらと籐椅子の上に動く。樹の間から大きな夏の雲が蓬々として日に染められて動いて行くのが見える。そこにも生命の力は動いてゐるのである。この我があるのである。かう思つてぢつとそれに見入つた。
 傍観生活と言ふことは、随分いろいろな批評を受けた。ある人からは贅沢だと言はれた。又ある人からは中ぶらりんだと言はれた。私も亦時にはさういふ風に考へた。しかしさうではなかつた。矢張傍観生活は尊いものであつた。
 法身といふことがある。傍観生活といふことはそれと同じである。人間は箇にして全である。人間には必ず法がある。所謂法とは自然である。生命である。生命の力である。宇宙の枢軸である。如来である。ところが、大抵の人はこの法を、自然を、生命を、枢軸を、生命の力をおろそかにして、寧ろ意識せずして、我にのみ着してゐる。我欲にのみ着してゐる。愛憎にのみ着してゐる。そしてその中心を法が、自然が金剛不壊の力を以て流れてゐることを夢にも知らない。そして一生を徒らに唯着して過して人間の一大事――死とか恋とかいふものに不意に出会して、そして驚いたり悲しんだり狼狽へたりしてゐる。多くは皆さうである。愛をモツトオにしてゐる人達などは殊にさうである。ところがその多くの人間の中に選ばれた人がある。その人は箇の中にいつも全を見る。従つてその人は単に人間でなくて法の人間、自然の人間といふ形を帯びて来る。大般涅槃経中に、世尊の説いた法身は、つまりそれを言つたのである。かれはあらゆることを世間にやつて来た。歓楽もやつた。射御角力の技も学んだ。波羅門の徒のやうな苦行もやつた。すべて世間にありとあらゆることをやつて来た。何の故に? 世間に生れたが故に、かう世尊は言つてゐる。そしてかれはあ…

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