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作者の言葉
さくしゃのことば |
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作品ID | 48871 |
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著者 | 田山 花袋 Ⓦ / 田山 録弥 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店 1995(平成7)年4月10日 |
初出 | 「読売新聞 第一六九二六号、第一六九二七号、第一六九二九号」1924(大正13)年5月3日、4日、6日 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | hitsuji |
公開 / 更新 | 2021-08-30 / 2021-07-27 |
長さの目安 | 約 7 ページ(500字/頁で計算) |
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『矢張、自分で面白いと思ふやうなものでなくつては駄目だね。いくら書いたツて、またいくら世の中に本を出したツて、それが自分でつまらないやうなものでは?』それはさういふ心持は、筆を執るものの誰でも持つてゐるものであらうと思ふが、しかもそれがいろいろな欲望と言つたやうなもののために蔽はれて、いつかその心持の失はれて行くのをすら何うすることも出来ないやうなことを私は度々経験した。そしてさうした場合ほど作者に取つて暗い暗い心持を味はせられる時はなかつた。私はいつも深い溜息をついた。
――何うかして本当のものを書きたい――かういふ言葉は、私が最初に筆を執り出した頃から常に頭に往来してゐるものであるが、今になつても、その願望の少しも変らないのを私は不思議にした。今だに私はその本当のものをつかむことが出来ずに、常に懊悩してゐるもののひとりであつた。所謂経験などをいくら重ねても、それは少しも役に立たずに相変らず暗中模索をやつてゐるもののひとりであつた。否、今度こそ本当につかんだと思つたものすらも、忽ち指の間からつるりと滑り落ちて行つて、再び五里霧中に彷徨してゐるもののひとりではなかつたか。『難かしいね? 書くといふことは?』かう私は言はずにはゐられなかつた。
心を起せ――私はその度毎にかう自分に言つた。
トルストイの心の煩悶といふやうなものをロマン・ロオランは書いてゐるが、ああした心の消長は、筆を取るものの誰にでもあるものではあるまいか。高く揚つたりまた低く沈んだり、振蕩するやうな時があつたり、萎縮して了ふやうな時が来たりして、もはや火もなくなつた、もはや全く灰燼になつた、さう思つてゐた心の場所から、忽ち山風にあほり立てられるやうに、すさまじく燃え出して来る火の鮮かさを私は何とも言はれない心持で眺めた。
写実といふ火も燃えるだらう。印象といふ焔も揚がるだらう。色彩や、塗抹や、象徴や、立体や、表現や、さういふさまざまの火もいろいろな特色をもつて燃え上るであらう。しかしさうしたものは、一度は燃えても長くは続かないだらう。ぢきに燃え草がなくなつて了ふだらう。生命の油が尽きて了うだらう。燃えないものを燃えさせやうとする空な努力を繰返すだらう。そして空虚と虚無とが心の場所を占領するだらう。そして多くの作者はそこで根気も力も何も彼も失つて了ふだらう。唯、トルストイのやうなああした真面目な本当な作者だけが、その最後の鮮かな火を燃やすことが出来るだらう。唯、芭蕉のやうなああした本当な心持だけが、林の中の火のやうなさびしい火を燃やすことが出来るであらう。又唯あの西鶴のやうな皮肉なさびしい心持だけが、男と女の胸に燃え上る本当の火を燃やすことが出来るであらう。
作は常にお話風であることを恐れる。世間並であることを恐れる。抽象された形になることを恐れる。いつも溌溂とした生気を持してゐ…