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山間の旅舎
さんかんのりょしゃ
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十一巻」 臨川書店
1995(平成7)年1月10日
初出「行楽 第一巻第一号(創刊号)」行楽社、1925(大正14)年4月1日
入力者tatsuki
校正者hitsuji
公開 / 更新2020-05-13 / 2020-04-28
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 山と山との間である。雨が降つてゐる。かなり強く降つてゐる。汽車の窓から覗くと、谷川が凄じく音を立てゝ白く砕けて流れてゐるのが見える。汽車の速力は次第に緩くなつて、やがて山の腹のやうなところに行つて留つた。小さな停車場――ほつ立小屋のやうな停車場がそこにあつた。B達は下りた。
 B達は以前からそこで下りたいとは思はないではなかつたが、この雨ではとても下りることは出来ないと思つてあきらめてゐた。だからもしY駅でかれ等の乗つてゐる二等室にその湯の瀬の旅舎の主人が乗つて来なかつたならば――それと名乗らなかつたならば、その渓潭の美しさを説かなかつたならば、かれもその妻を谷の中に置いて来てゐるので、昨日今日の出水で何処か通れなくなつてゐれば止むを得ないが、さうでなければ、何うしても行くつもりだと言はなかつたならば、B達はその名高い渓谷をそのまゝ通り越して、ずつと国境を越して了つたに相違なかつた。否、一緒に連れ立つて来てゐるBの伴侶が、普通の女のやうに、さうした冒険に同意しなかつたならば、矢張その結果は同じことで、そのまゝお了ひになつて了つたであらうが、不思議にもかの女はB以上にそこに行くことに賛成した。Bの行くところなら、何んなところへでも行かずには置かないといふやうな心の熱さをすらかの女は見せて、「大丈夫ですとも、こちらが一緒に行つて下さるんですもの。行けなかつたら、途中から戻つて来れば好いぢやありませんか。折角、此処に来て、見ずに素通りして了つては、あとで思ひのこりになりますよ」かう言つてあべこべにかの女は勧めた。
 旅舎の主人は軍人上りで、元気で、頼りには十分になつたが、しかも下車した後では、Bは流石に後悔せずにはゐられなかつた。停車場の傍の、これも矢張荒壁むき出しの休憩所で、かの女が浴衣がけになつたり、帯や何かを信玄袋に入れて明日帰つて来るまでと言つてそこの爺に頼んだり、白足袋をそのまゝ草鞋穿きになつたりするのを見ると、あまりに興に乗り過ぎて女の心を察しすぎなかつたといふやうにも考へられて、「大丈夫かなア!」と思はず口に出して言つたりなどした。しかしかうなつた上は、もはや何うすることも出来なかつた。「大したことはありませんよ、途中だつて――。橋のところがあるんですが、そこぐらゐなもんでせう」旅舎の主人はこんなことを言つて、番傘をひろげたまゝB達の先に立つた。



 B達はをりをり顔を見合せて笑つた。かれ等の心はぴつたりと合つた。かれ等はつらいとも、佗びしいとも、さびしいとも何とも思はなかつた。いつもは多勢の人の群の中に、いやにじろじろと此方を見る眼の中に、叮嚀に口をきく旅舎の人達の中にわるく皮肉になつたかれ等を見出すのが常であるのに――今はさういふものからすべて離れて、草を、木を、山村を、橋を、山から山へと簇つて靡いて来る雲を、竹藪を、その竹藪の下を…

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