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静かな日
しずかなひ |
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作品ID | 48877 |
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著者 | 田山 花袋 Ⓦ / 田山 録弥 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店 1995(平成7)年4月10日 |
初出 | 「文芸春秋 第三年第一号」1925(大正14)年1月1日 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | hitsuji |
公開 / 更新 | 2021-07-27 / 2021-06-28 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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箇に立籠つて、自からその特色を護るのもわるくはないけれども、願くは、自分の書いたものが横に社会に影響して、実生活の上までにも感化乃至動揺を与ふやうなものでありたい。しかしその程度が、今のやうに単に面白いとか、めづらしいとか、新しいとかいふ以上に――。
せめて世間から憎まれるとか、抗議を起されるとか、異端視されるといふあたりまで行きたい。世間がそれに対して真面目に考へさせられるあたりまで行きたい。理想を言へば、この世を度する程度までその筆を進めて行きたい。
しかし、小説でそこまで行くのには、矢張大きな天才を待たなければならない。何故といふのに、抽象的にはつかんで言ふことは出来ても、具象的にそれを展開させた上に――わからない民衆程度にそれを引下げて見せるといふことは非常に難かしいことであるからである。
或人は言ふ。『さうした隠遁は無意味でせう。つまり、さうした隠遁から社会に出て来た処に始めて意味が出て来るのでせう。ですから釈迦の苦行は、あれは何でもありますまい。その証拠には、山から社会に出て来ればこそ意味を成したが、山に隠れたきりでは、一仙人としてより以外に何でもなかつたでせう』それはたしかにさうである。しかしあの苦行がなければあの社会への驀進はなかつたのである。その孤独がなければあの融合はなかつたのである。そこを考へて見なければならない。社会的栄華に、または世間的成功に酔つてゐる時が、一番孤独であることを考へて見なければならない。
世間に迎へられた時は、世間から一番圧迫される時であることを私達は覚悟しなければならない。さういふ時には、世間はいろいろな注文を私達に持ち来たす。左せよ。右せよ。もう少し上を向け、もう少し頭を低くせよ。こんなことを勝手に言つて来るものである。煩さいものである。腹の立つものである。時には何うかしてさうしたうるさい圧迫から遁れたいと思ふものである。さういふ時には、世間は慾のかたまりか何かのやうに私には見えた。
ひとつの議論として話されるものにはいかなる場合にも私は黙つてゐたいやうな気がする。何故なら、本当のことは、ひとつの議論ではないからである。一度議論される形になれば、それは最早何うしたつて具象的ではあり得ないからである。そして具象的になればなるほど口では言へないやうな形になつて行くからである。
しかし、さういふ人達には、それでは何うしても物足らないやうに見える。抽象的にして了はなければ満足が出来ないやうに見える。そしてさういふ人達はいつもかういふ。『それはさうに違ひないけれども、それでは話にならないからね』と。しかしその話が話にならないところに深い面白いところがあるのではないか。人生の機微があるのではないか。本当の心持が深く横へられてあるのではないか。それを一たび右か左かにきめて了つては、本当の有機体がひとつの固…