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自然
しぜん
作品ID48879
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店
1995(平成7)年4月10日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者hitsuji
公開 / 更新2021-09-08 / 2021-08-28
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 地震といふものも矢張自然のリズムの動き方のひとつであらう。その根本は私達の心のリズムに続いてゐるのであらう。止むに止まれない自然のあらはれであらう。



 天譴だとか、天譴でないとか、いろいろなことを言つてゐるが、それは各自の主観の問題だから、何うにでも感じられるであらう。事実、天譴と感じたものも沢山にあるだらう。そしてさう感じたものを、自分がさう感じないからと言つて、批評したりわる口を言つたりすることは出来ないだらう。もしさう言つて冷笑してゐるものがあらば、それは却つてその人の内容が見透されるであらう。さうかと言つて、私とても客観的に天譴を認めるものではないのは言ふまでもないが――。



 難かしい理窟はない。ちよつと考へて見てもすぐわかる。今まで贅沢をしてゐたものが着た切りの焼け出されになれば、余りに平生贅沢をしてゐたから、その報ひだぐらゐには思ふに違ひない。またさうは思はないまでにも、つまらぬ虚栄に捉へられてゐたといふぐらゐの後悔はする。また、平生わるいことをしてゐたり、心に暗い影を持つてゐたりしたものは、一層深い恐怖と戦慄とを感ずるに相違ない。そしてそれは何うすることも出来ない事実である。尠くともさういふ人達に取つては、今度の震災は天譴であつたに相違ない。



 また、今度のことで、自然といふものの恐しいことを説いたり、近づくことの出来ないものであることを言つたりしてゐるものもあつたが、さうは私は思はない。自然は何処まで行つても自然であるといふ気がする。自然は恐るべきものでもないが、さうかと言つて、狎るべきものでもないといふ気がする。自然は慈母であると共に厳父である。否、さういふ考へ方をすべて超越してゐるのである。



 たしか蘇東坡の文章の中にあつたと思ふが、雷もいつ落ちるか知れないから権威があるので、あれが悪人だけを打つものときまつてゐたら、全くあの恐ろしさの価値が亡くなつて了うだらうと言つてゐたが――つまり端倪すべからざる所にあの雷の持つた権威があると言つてゐたが、実際その通りで、自然もはつきりと人間から見透されるやうになつて了つては、それこそもう終極である。何処まで行つても、何んなに科学が発達しても、竟に竟にその奥を、底を見透かされないところに自然の大きさがあり、深さがあり、権威があるのである。天譴のやうで、また天譴のやうでもなく、必然のやうでまた偶然のやうな端倪せられないあらはれの上にこそ本当の自然の権威があると言つて好いのである。此処にも私は主観と客観との深い深い交錯を思ふことが出来る。



 人間は自然に同化した状態にある時が一番安全で且つまた一番幸福であることを今度の震災に於てつくづく私は痛感した。



 人間は兎角自己の歩いて行く先だけを見て、その周囲や背後や頭上を見廻はさうとはしないものである。唯、…

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