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新感覚論
しんかんかくろん
作品ID4888
副題感覚活動と感覚的作物に対する非難への逆説
かんかくかつどうとかんかくてきさくもつにたいするひなんへのぎゃくせつ
著者横光 利一
文字遣い新字新仮名
底本 「愛の挨拶・馬車・純粋小説論」 講談社文芸文庫、講談社
1993(平成5)年5月10日
入力者土屋隆
校正者米田
公開 / 更新2012-02-17 / 2014-09-16
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

独断

 芸術的効果の感得と云うものは、われわれがより個性を尊重するとき明瞭に独断的なものである。従って個性を異にするわれわれの感覚的享受もまた、各個の感性的直感の相違によりてなお一段と独断的なものである。それ故に文学上に於ける感覚と云うものは、少くとも論証的でなく直感的なるが故に分らないものには絶対に分らない。これが先ず感覚の或る一つの特長だと煽動してもさして人々を誘惑するに適当した詭弁的独断のみとは云えなかろう。もしこれを疑うものがあれば、現下の文壇を一例とするのが最も便利な方法である。自分は昨年の十月に月評を引き受けてやってみた。すると、或る種の人々は分らないと云って悪罵した。自分は感覚を指標としての感覚的印象批評をしたまでにすぎなかった。それは如上の意味の感覚的印象批評である以上、如上の意味で分らないものには分らないのが当然のことである。なぜなら、それらの人々は感覚と云う言葉について不分明であったか若くは感覚について夫々の独断的解釈を解放することが不可能であったか、或いは私自身の感覚観がより独断的なものであったかのいずれかにちがいなかったからである。だが、今の所、「分らないもの」及び感性能力の貧弱な人々にまでも明確に了解させねばならぬそれほども、私は私自身の独断的表現を圧伏させ、文学入門的詳細な説明をしていることは、月評としては赦されない。だが、私は自分の指標とした感覚なるものについて今一度感覚入門的な独断論を課題としてここで埋草に代えておく。

感覚と新感覚

 これまで多くの人々は文学上に現れた感覚なるものについて様々な解釈を下して来た。しかしそれは間違いではないまでもあまりにその解釈力が狭小であったことは認めねばならぬ。ある一つの有力な賓辞に対する狭小な認識はそれが批評となって現わされたとき、勿論芸術作品の成長範囲をも狭小ならしめることは、一例を取るまでもなく明かなことである。最近遽に勃興したかの感ある新感覚派なるものの感覚に関しても、時にはまた多くの場合、此の狭小なる認識者がその狭小の故を以って、芸術上に於ける一つの有力な感覚なる賓辞に向って暴力的に突撃し敵対した。これは尤もなことである。さまで理解困難な現象ではないのである。何ぜならこれは、今迄用い適用されていた感覚が、その触発対象を客観的形式からより主観的形式へと変更させて来たからに他ならない。だが、そこに横たわった変化について、理論的形式をとってより明確な妥当性を与えなければならないとなると、これは少なからざる面倒なことである。先ず少くとも一応は客観的形式なるものの範疇を分析し、主観的形式の範疇分析をした結果の二形式の内容の交渉作用まで論究して行かねばならなくなる。ただそれのみの完成にても芸術上に於ける一大基礎概念の整頓であり、芸術上に於ける根本的革命の誕生報告となるのは必然なことである…

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