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社会劇と印象派
しゃかいげきといんしょうは
作品ID48883
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店
1995(平成7)年4月10日
初出「文章世界 第九巻第三号」1914(大正3)年3月1日
入力者tatsuki
校正者岡村和彦
公開 / 更新2019-04-13 / 2019-03-29
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 社会劇と印象派といふ題を設けたけれど、別に深く研究した訳ではない、唯、此頃さういふことを考へたことがあつたから、此処では自分の貧しい経験といふやうなことを中心として少し述べて見たいと思ふ。
 先づ社会劇といふことゝ自己と言ふことゝを言はなければならない。社会と自己との関係などいふことも言はねばならない。社会と自己との関係――これはかなりむづかしい問題であるが、先づ大体に言つて、個人が根本で、社会がその上を蔽つてゐるといふやうな形になつてゐると私は思ふ。個人だけでも好いのである。自己だけでもいゝのである。昔は、それなら絶海の中の孤島にゐて、それでも社会があるかなどゝ言ふことを言つたが、矢張あると思ふ。一人だから、社会にはなつてはゐないが、社会をつくるといふ心持は矢張り一人でもあると思ふ。だから、何うしても根本は自己、個人といふことになる。個人が集つて都合のいゝやうな妥協をして、一人ではさびしいからなど言つて、皆なで寄り集つて都合の好いやうにしたのが社会である。であるから社会には妥協、同情、形式などいふことが非常に多い。社会に安んじて生きて居る大抵の人は、かういふ第二義的の殻を被つて、お互に救け合つて生きてゐるのである。生温るい境遇である。自己の心持などは二のつぎに置いて、人のことを多く考へる。だから、博愛主義、利他主義といつたやうな、さういふ他人の為にするといふことが第一になつてゐる。世の中を見渡すに、多くは皆なさういふやうである。
 ところが、ある人にとつてはさういふ境地ではゐられない。自己といふことが痛切に考へられて来る。さういふ人は社会よりも自然を対照にして考へて行くやうになつてゐる。自然を対照にして考へて見ると、さうしてじつとして社会といふ微温い中に入つてゐることが出来なくなつて来る。社会で必要上からきめた道徳とか、法律とかいふものに満足がされなくなつて来る。もつと自然は大きい。掘つても掘つてもつきないやうなのが自然である。その自然に向ふと、段々社会はいゝ加減なところでお互に妥協してゐるといふ心持が盛に起つて来る。芸術家などゝいふものは殊にさうである。深く入るのが目的であるし、深く入らなければ何うにもならないやうなものであるから、どん/\入つて行く。で、社会を批評するといふ心持が盛に起つて来る。社会律に甘じてゐる人を一面は馬鹿にし、一面は憐れむといふやうな心持が起つて来るのである。
 それが更に進んで来ると、自己が種々な困難に逢つたり何かして、内省力が拡大されて、自然の一部なる自己、社会といふ風になつて来る。初めは社会の表面的な妥協に甘んじて、それが好いと思つてゐたのが、段々自己が覚醒して、これではいけないと言つて、自己に痛切なものを尊ぶやうになる。始めて自己を認めたのである。この時には、自己の対照にまだ社会がある。自己の自然で社会に面したといふ形が…

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