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小説新論
しょうせつしんろん
作品ID48887
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店
1995(平成7)年4月10日
初出「青年文壇 第二巻第一号~第七号」1917(大正6)年1月~7月
入力者tatsuki
校正者岡村和彦
公開 / 更新2019-01-22 / 2018-12-24
長さの目安約 67 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

一 読書と実生活

 若い人達の為めに、小説を書くに就いて、私の経験した作法見たいなものを書いて見る。
 長年私は投書を見て来てゐるので、諸君が何ういふ作をするか、何ういふ風に小説といふものを考へてゐるか、また何ういふ風に無益の努力をやつてゐるかといふことを知つてゐる。私の見たところでは、諸君の小説を書く態度は浮気である。移気である。ちょいと[#「ちょいと」はママ]面白いから書いて見る位のところである。そして二三度やつて見て、旨く行かないと、すぐやめて了ふ。
 小説は書簡文とか、叙述文とか、実用文とか言ふものゝやうに、この世の中を渡るために必要上勉強し修業するものではない。また小説は学者のやる学問見たいなものではない。この世の中の直接実用には何等の交渉がない。従つて小説と言ふものは総ての学術と言ふものからは全く独立してゐる。それだけ天地が広く茫漠としてちよつとつかみにくいやうなものである。又それだけうはの空では出来ないものである。一生の精神と努力とを籠めても、それでも出来るか何うかわからぬものである。
 私など書生時分に、前途を悲観して、とてもこれでは駄目だ。こんなことでしやうがない。かう何遍思つたか知れない。しかしその度に、『仕方がない。これより他に自分のすることがない。自分の性情に適したことがない。出来るか出来ないか、のるかそるか、自分の一生を棒に振るかも知れないが、兎に角やつて見やう』かう言つて机にかじりつくやうにして本を読んだり筆を執つたりして来た。誰に聞いてもわかるであらうが、兎に角、小説を書くと言ふことは楽なことではない。又、他の学術や事業に比しても、一層の努力と一層の精進とを要することは事実である。
 であるのに、投書などをする人達は、多くは小説を道楽視する。楽に面白く書けるものと思ふ。労少くして功多きものと思ふ。その作が多くは浮はついてゐて、吹けば飛ぶやうなものが多いのも止むを得ない。
 であるから、本当に小説を書かうとする人はそんなことではいけない。もつと真剣に精神と体とを打込んでやらなければいけない。最初から魂をそれに深く打込まなければいけない。従つて、『小説作法』などゝ言ふことは、さう大して重きを置くべきでない。千の『小説作法』があつても、それで小説が書けるものでない。この私の『小説作法』でも、だから、私の経験した話を書くだけであつて、それが少しでも、ほんの少しでも、参考になれば好いと思つてゐる位のものだ。
 小説の根本義などは、だから、此処には説かない。又、それを説く余裕もない。で、段々その話を進める順序として、小説を書くほど、生きた知識と生きた経験とを要するものはないといふことを説かうと思ふ。
 凡そ小説家は、何でも知らなければならない。世相のすべての状態、人間の個々の性情、人間の生活の千差万別、下は乞食の生活から、上は貴族の生活ま…

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