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小説への二つの道
しょうせつへのふたつのみち |
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作品ID | 48888 |
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著者 | 田山 花袋 Ⓦ / 田山 録弥 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店 1995(平成7)年4月10日 |
初出 | 「文章世界 第十五巻第十号(秋季特別号)」1920(大正9)年10月1日 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | hitsuji |
公開 / 更新 | 2021-11-27 / 2021-10-27 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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一
何うも、事実を書くと、兎角平凡になり勝である。なら想像で拵へ上げたものは何うかと言ふのに、これも本当でないので、矢張面白くない。兎角、その奥が見透かされさうになる。
苟も小説家である以上、自分の経験したものばかりを――つまり Ich-Roman ばかりを書いてゐるのでは、甚だ物足らない。何うかしてあらゆる種類の人物を紙上に活躍させたい。あらゆる世間の状態を書きたい。かう誰でも思ふに相違ない。しかし、それが容易に出来ない。言ふべくして容易に行はれない。人間の種々相を描いて、それが第二の自然でもあるかのやうに、渾然としてその前にあらはれて来るといふことは容易なことではない。従つてさうした計画は多くは失敗する。よくその奥が見透かされたり、作者の小さな意図があまりにはつきり現はれ過ぎたりして、迫実と言ふ上から言つても、第二の自然を創造するといふ上から言つても、大抵は隙が出来る。
つまり事実、または自己の経験してきたと同じやうな的確さを以て、更に言ひ換へれば、『自然』と同じやうな複雑さや単純さを以て、縦横自在に、別天地をつくつて行くと好いのだけれども、何うもそれが容易なことでは出来ないのである。
二
で、噂の世界――即ちお話の世界も、作者に取つては、ある程度まで必要なことになる。そこから作者は人間の心や、自然の姿や、奥深い神秘の形をも探し出すことが出来る。しかし、このお話の世界は決して自己の内部の光景とは同一ではない。誇張もあれば、虚偽もある。好加減な断定もあれば、馬鹿々々しいお世辞もある。裏もあれば表もある。とても、このお話の世界だけでは、人間の本当のことはわからない。わかるのは唯ほんの外面だけである。だから、時々はこれを自分の内部の光景と照し合せて見なければならない。厳密に照し合はせて見なければならない。ところが、何うかすると、そのお話の世界を照し合はせて見なければならない。本当の自分の内部の光景が、少しも出来てゐないやうな場合がよくある。つまり、お話の世界にすつかり圧倒されて了つて、それが、すべての人生であるといふ風に見てゐるのである。さうした心持が、よく作者を低級な通俗がゝつた方へと伴れて行くものである。
それに比べると、自己の内部の光景を主にしたものは、仮令、小さくとも、つまらないものであるとも、兎に角、さうした隙がない。そこには実感がある。実感の迫実がある。馬鹿に仕切つてしまふことの出来ない何物かゞある。そのために、そつちの方に向つて進んで行くものが多いのであるが、何うもそれだけでも物足りない。小説として物足らない。
『もう少し何うにかなりさうなもんだ……あれぢや丸で日記だ……』かう言はれても為方がないといふやうな形になる。
『何うも、そこが難かしいんだ。この外部と内部とがぴたりと合つた上に、それを縦横に駆使して、第二の自然を創造すると…