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心理の縦断と横断
しんりのじゅうだんとおうだん
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店
1995(平成7)年4月10日
初出「文章世界 第十三巻第四号」1918(大正7)年4月1日
入力者tatsuki
校正者岡村和彦
公開 / 更新2018-09-30 / 2018-08-28
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 箇々の対立までは、誰でも行けるが、それから箇々の融合まで行く路が容易でない。対立を痛感するといふことは、既にかなりに深く自己の心理の縦断をやつたことではあるが、この縦断から横断に移つて行く間に、越え難い大きな谷がある。そしてこの谷を渉るには殊に玲瓏透徹した縦断の太い丈夫な綱が必要である。
 縦断にも、無限の度数があり、また無限の波動のリズムがあつて、絶えず一起一伏してゐる。寸進尺退のやうな場合も決して尠くない。一理を究め得、一問を解き得て、それでほつとすると、自負心が生じないまでにも、原理としてその張り詰めたものが弛む形になつてゐるのであるから、余程そこがむつかしい。だから聖者は教を説くのに、深く増上慢を戒めてゐる。慢心一たび生ずれば、百の解決も千の究理も、忽ちその力を失つて了ふと言つてゐる。
 平等と差別との混乱は、この縦断に由つてかなりに統一せられ、整理される。外面的でなくて内面的であり得る。しかし、この統一乃至整理が、差別を認めない境に至るまでには、幾度か差別に就いて躓かなければならない。つまり空、非空、相、非相の理が、外形に捉へられて、深い縦断を敢てしようとしつゝも、自由にその奥に入つて行くことが出来ないのである。
 この難境を突破して、始めて箇々の対立といふことを痛感するのであるが、この対立から、完全に他の認め得たことから、または他の中に自己を見、自己の中に他を見るといふことから、次第に箇々の融合といふ境を庶幾することが出来た。

 此処にAならばA、BならばBといふ人間がある。そのAなりBなりが、A、Bといふ箇の特色の方を色濃くせずに、寧ろ人間といふ全の方について重きを置くやうになるといふことは、この心理の自己の縦断といふ処から起つて来ることであつて、この境地に達することは、わけがないやうに見えて実は甚だ難かしい。我々は『われは人間なり』といふことを真に理解し、痛感すれば、それはもう立派な心理の縦断が出来てゐるのであるが、そこまで行つた人は甚だ尠い。世尊は、『われは人間なるが故に……』かう言つて、そこを高調してゐるが、この言葉には、実に立派な心理の縦断がその背景を成してゐることを私は思はずにはゐられない。
 箇から全に行く……。これは誰でもさうらしい。しかし、箇に包まれて死ぬまで全が出て来ないやうな人もある。若い中から全をよく透徹して見ることが出来るやうな人がある。これは矢張、その人々の天分の差で、何うも為方がないやうなものであるが、しかし大きな法則は、矢張そのなかにリズムを刻んで、絶えず波打ちつゝ動いてゐるのは事実である。
 私はあるところでかういふことを演説した。『私が、私の心の閲歴で平気でさらげ出して書くので、ある人は、私を目して厚顔無耻だと言つた。厚顔無耻! 私は考へた。実際厚顔無耻だらうか。否、否、決してさうではない。むしろ、私を目し…

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