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生滅の心理
せいめつのしんり
作品ID48907
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店
1995(平成7)年4月10日
初出「文章世界 第十二巻第七号」1917(大正6)年7月1日
入力者tatsuki
校正者hitsuji
公開 / 更新2020-01-22 / 2019-12-27
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 生と滅との相聯関してゐる形は到る処にそれを発見することが出来る。生の究竟に滅あり、滅の究竟に生あり、又これを実際の心理に照して見ても、滅を背景に持つた生は、持たない生よりも力強く、生を背景に持つた滅は、決して滅ではないといふことが考へられる。捨てたものほど強いものはない。かう昔から言はれてゐるが、捨てなければ、滅しなければ、または滅をしつかりとその根柢に所有して居なければ、本当の積極的主観は迸出して来ないものである。心の泉を汲んで汲んで汲み干して了ふと、あとから新しい泉が滾々として湧いて来ると言ふが、それも矢張さうした異常なる心理である。
 捨身になるといふ言葉がある。これも矢張さうである。自暴自棄の心境は、生も滅もすつかり傍にやつて了つたやうな形であるが、捨身はさうではない。滅の中に力強い生を発見した形である。それから自然主義時代に、『あきらめ』と言ふことがよく口に上つたが、そしてその『あきらめ』といふことを単に妥協風に考へて卑しめたものだが、この『あきらめ』も消極的でない限り、矢張生を孕んでゐる滅である。
 勝つといふことと敗けるといふこととこれも矢張生滅の裏表の心理である。『敗けるが勝』その反対に、『勝利者の悲哀』乃至『勝利の犠牲』といふ言葉がある。勝つといふことに敗けるといふことが連り、敗けるといふことに勝つといふことが相繋つてゐるのである。
 生滅の刻んでゐるリズム、これほど確とした大きな立派なものはない。細は何処までも細で、大は何処までも大である。我々は一日乃至一秒時間の中にもこの生滅のリズムの刻んでゐるのを認めることが出来ると共に、無窮の人生と宇宙の間にもその波の起伏してゐるのを認める。文芸上ロマンチイシズムの次に自然主義が起り、自然主義の次に理想的民衆主義が起りつゝあるのも、実はその一起一伏の大きな『あらはれ』である。生滅のリズムである。
 人を押詰めて見る。一度は押詰められても、屹度その人が押返して来る。又護謨毬のやうなものを押して凹ませて見る。離せば屹度もとに戻る。さういふ心理状態である。であるから、此方で思つたことが向ふに通じないといふことがないとか、怨恨は必ずそのそゝがれた人に何等かの反応を呈するとかいふものも、あながち荒誕なこととばかりに言つて了ふことが出来ない。
 政治界でも、文壇でも、又は普通のあらゆる社会でも、この細かい生滅の心理が、その底の底の一番底の微妙な根柢をつくつてゐるのである。空気とか、暗流とか、気分とかといふことは、その底から起つて醸して来てゐるのである。従つて慧の聡明な人物は、直ちにそこに入つて行く。そしてそれに由つて即不即、離不離の立場を巧につくつて行くのである。古来の英雄豪傑と言はれる人物、乃至大詩人と言はれる人々、大事業家と言はれる人々は、皆なその根柢の生滅の心理に深く触れて行つてゐるのを私は見る。…

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