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存在
そんざい
作品ID48909
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十三巻」 臨川書店
1995(平成7)年3月10日
初出「不同調 第二巻第四号」1926(大正15)年4月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者津村田悟
公開 / 更新2021-08-21 / 2021-07-27
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 武林文子に対する批評の中では、広津和郎の言つたことに私は一番多く共鳴した。『だが、道徳性を離れて見た場合、この女性は男性に取つては魅力ある存在である』以下十行ほどはことに好い。流石は芸術家の見方だけあると思つた。
 存在といふ方から人間を見ることは多い見方の中でも、ことにすぐれて徹底したものであるといふことを私はこれまでにも度々言つて来た。しかし、普通人にあつては、さうした心境に達することは容易でないのであらう。皆なそこまで入り得ない中に、或はその好悪に、或はその修養に、或はその年齢に捉へられて、平凡な、常識的な考へ方に落ちて行つて了ふやうである。それでは、とても本当の事は分らない。
『白霧』の女主人公をそれに対比させて言つてゐる形なども面白い。存在といふ方から言ふと、無論後者よりも前者の方が面白くもあれば意味もある。つらさもつらいだらうし、苦しさも苦しいだらう。そこに文子の存在の上に一種の淡い意義がある。自分のやつてゐることそれ自身がひとつの立派な創作であるといふ風に文子自身が言つてゐたが――それはやゝ思ひあがりすぎるが、さうした形がいくらかはないではない。あの存在から比べれば、『白霧』の主人公の存在などは、もつとずつと幼稚なものだと言つて好い。
 無想庵の小説は拙いかも知れない。しかしあれを馬鹿にして了ふことは出来ない。あれを馬鹿にするものは、偶その馬鹿にした人の男女状態の深くないことを語つてゐるやうなものである。あゝいふ状態にゐるものがいかに苦しいか、またいかに自暴自棄に陥るかを知らないことを表白してゐるものだ。

 存在といふことは、飽までも第一義的である。これだけは何うすることも出来ない。何んなに悪であらうが何んなに不道徳であらうが、価値あるものは捨てることが出来ない。価値とは何ぞや、曰く人を惹かずには置かない一つの存在!

 人間をいかに描くかといふことよりも、人間をいかに見るかといふことの方が先きである。何ういふ風に見て、何ういふ風に感得する? これが作者として検せられる一番大切なことである。あの作者は何ういふ風に人間を見たか。何ういふ風に人間を感得したか? その答の如何に由つて、或は主観詩人とされ、或は客観詩人とされる。
 然るに、この人間を感得するといふことについても非常に沢山な階段がある。それは華厳の『十地論』どころの騒ぎではない。もつともつと沢山にある。だから厄介である。批評がよく水掛論に終るのは多くそのためである。従つて作者の側から言つても、その作中の人物が小主観的に堕ちることを第一の恥とする。何うかして誰が見てもそれと肯はれるやうな人物を点出したい。傀儡でない人物を点出したい。かう思はないものは誰もない。しかしその感得の能力の階級が高級に属してゐなければ、多くは失敗に終るものである。従つて知識が肝要になり、理解が肝要になる。否、知…

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