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脱却の工夫
だっきゃくのくふう
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店
1995(平成7)年4月10日
初出「文章世界 第十二巻第一号」1917(大正6)年1月1日
入力者tatsuki
校正者hitsuji
公開 / 更新2019-10-03 / 2019-09-27
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 O事件に対するB同人の批評は多くは普通道徳を照尺にしたやうなものであつたが、中でK・Y女史の談話は、自己の実際を背景にしたものだけに一番面白いと思つた。この中には、男女問題の空気がかなりに細かく理解されてあつた。単に第三者の想像以上にある確実なものをつかんでゐる。そこが面白いと私は思つた、それから、その帰着点を子供と母親といふ点に持つて行つたところも女らしくて、いかにも本当であるといふことを点頭かせる。しかしN氏の子供に対する態度の批判にはもつと先がありやしないかと私は思ふ。そこにN氏の性質があり境遇があり、またそれから生まれて来た運命があるのではないか。又、そこに深い、今回の事件を惹き起すやうな悲劇が横つてゐるのではないか。
 私の考では、事件後のO氏とN氏との心理状態を注意して見たいと思ふ。そしてそれに由つて始めてO氏とN氏との人間としての本当の価値が批判さるべきであらうと思ふ。
 しかしこの事件に、自暴自棄といふことがその背景を成してゐたといふことを私達は考へて見なければならない。又、さういふ空気から醸されて来たといふことを遺憾としなければならない。人間が自暴自棄になつた形ほど悲しむべきことはないと私は思ふ。

『日本主義』に出てゐる岩野君の国家と個人との議論は、流石に学者達の単なる研究と排列とは違つて、深いところに達してゐるのを私は見た。イギリスの妥協主義なんかを、本当の個人主義と同じやうに見たり言つたりするやうでは、個人即国家、国家即個人と言ふやうな深いところが理解され得べき筈がない。
 岩野君は流石に深く物を見てゐる。優強者といふものゝ見方も同意だ。しかしマツクス[#「マツクス」は底本では「マックス」]、スチルネルの言つたやうな吸収主義に就いては――強者ばかりの人生といふやうな哲学に就いては、私はまだ多少の疑ひを持つてゐる。

 K氏の『銀貨』といふ小説を、A氏が遊蕩文学の中に入れなかつたと言つて、作者自身が喜んでゐるのを私は滑稽だと思つた。『銀貨』などゝいふ作は男女のことなんか少しも考へてもゐないし、知つてもゐないといふやうな作である。何処かで聞いた話を敷衍したにとゞまるやうな作である。こんなものよりも、遊蕩文学者と言はれるN氏とかT氏とかY氏とか言はれる人の作の方が何れだけ深く男女のことを知つてゐるかわからない。又どれだけ深く男女のことを考へてゐるかわからない。遊蕩文学の議論には別に意義といふほどの意義もないが、深く入りもせずに、また考へもせずに、若い心と言つたやうなもので、上段から振翳した形が馬鹿々々しい。

 否定と肯定、これは楯の両面である。又作者の心的状態のその折々にふれてのあらはれである。或は否定し、或は肯定する。否定は肯定を経て来た否定であり、肯定は否定を経て来た肯定でなければならぬ。そこに始めて意義がある。従つて理想主義も単な…

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