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父親
ちちおや
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十二巻」 臨川書店
1995(平成7)年2月10日
初出「令女界 第四巻第八号」1925(大正14)年8月1日
入力者tatsuki
校正者津村田悟
公開 / 更新2018-10-17 / 2018-09-28
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 多喜子は六歳の時に此処に来たことがあるさうであるけれども、さうした覚えは少しもなかつた。石段になつてゐるやうな坂の両側に宿屋だの土産物を売る店だのが混雑と並んでゐて、そのところところから温泉の町のしるしである湯気がぱつと白く夜の空気を隈取つた。
『不思議ね。ちつとも覚えてゐないわ』
『さう……』
 姉の政子はそんなことは何うでも好いといふやうに素気なく言つて、ぐんぐん石段を登つて行つた。
 しかし多喜子にはその覚えてゐないといふことが気になつた。いくら幼なかつたにしても、一度来たところならば何かしら覚えてゐさうなものである。何でもその時は父親は先きに来てゐて、それを母親と一緒に訪ねて来たといふことである。日影の暖かに当る硝子戸の下で蜜柑などを持つて遊びながら、長い長い汽車で此処までやつて来たといふことである。西洋人形のやうな眼をしてゐたので、誰でも皆なそれに目を留めて、『可愛いお嬢さん……おいくつです?』などと言つて声をかけたさうである。ことに、さつき通つた山裾の町では、その時分はまだ汽車がそこまで来てゐなかつたので、電車を下りて、そこで夕飯代りの蕎麦を食つたさうであるが、その時、猟銃を下げて獲物の小鳥を沢山に持つてゐた隣の若い田舎の男が後で父親の行つてゐる山の湯の宿の息子と知れて、いろいろ親切に世話をして呉れたさうであるが、さつきその町を電車で逸早くかすめて通る時にも、母親はその蕎麦屋を指してそれと教へて呉れたけれども、しかも多喜子には何等の記憶をも呼び起すことが出来なかつた。『不思議ね、ちつとも知らないわ……それでこの電車もその時からあつたのね?』大きなカアブをゑがいて不愉快な音を立ててギイギイと山をのぼつて行く電車を指して多喜子はそんなことを言つた。多喜子は今度の温泉行を姉以上に楽んでやつて来たことを繰返した。初めて行くところでないといふことが却つて多喜子に興味を誘つた。今は覚えてゐなくとも、ぢかにそこに行つて見れば、屹度思ひ出すに違ひない。眼が覚めたやうに思ひ出すに違ひない。かうかの女は思つた。しかし来て見ると案外だつたのである。山にも、川にも、電車にも、林の中の路にも、白く湯気の[#挿絵]つてゐる町にも、何等の記憶を呼び起すことが出来なかつたのである。



『あゝ、あゝ』
 夜の散歩から戻つて来て室に入ると、いきなりかう多喜子は言つた。
『何うしたの?』
 母親は振返つた。
『だつて、ちつとも昔のことなんか思ひ出せないんですもの……。本当に私、来たのかしら?』
『そんなこと何うだつて好いぢやないか』
『だつて、私、気になるんですもの。宿屋は何処なの? 此の家ぢやないんでせう?』神経質の多喜子はそれがはつきりして来ない中は、何だか心持がそぐはないといふやうに、『その時の宿屋はもうないの?』
『あるにはあるけれど……』
『何うして泊らなかつ…

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