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通俗小説
つうぞくしょうせつ
作品ID48925
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店
1995(平成7)年4月10日
初出「新潮 第四十一巻第二号」1924(大正13)年8月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者hitsuji
公開 / 更新2021-09-18 / 2021-08-28
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

         △
 私が鈍才であるためかも知れないが、何うも本格的な小説が書けない。一時は随分そのために苦労もし、骨も折つて見たのであるが――人一倍いろいろなことをやつて見たいと思つてゐるが、その出来栄の如何といふことよりも、何うもそれでは自分で満足が出来ない。こんなものをいくら書いたつてしやうがないといふやうに思はれて、あとでそれを振返つて見る気になれない。その癖、私のかねての願望はさうではなかつたのである。苟しくも小説家として筆を持つて立つてゐる以上、何んなことでも書けるやうにならなければ本当ではない。いかなる人生でも展開して来やう。いかなる人間でも如実に描き出して見せやう。かう思つてやつて来たのである。ところが、さういふことは非常にむづかしいことで、口でこそ言へるが、いざとなつては、容易に実行出来るものでないといふことが次第に私にわかつて来た。自己と同じ程度に他を見るといふことは、それは容易に出来ることではなかつた。或は全く不可能であると言つても好いかも知れなかつた。従つて本格小説が多くは通俗小説に堕して了ふのも止むを得ないことであると言はなければならない。
 本格的であつてそして心境的の手堅さを持つたやうなもの、さういふものが一番好いのであるのはわかり切つてゐるが、何うもさういふものは、外国でも沢山はないらしい。私達も以前は外国の小説でさへあればすぐれてゐると思つてすぐ傾倒して了つたものであるけれど、今日考へて見ると、随分低級な通俗小説をも立派な作だと思つてゐたことがないとは言へないのである。低級になればなるほど、通俗になればなるほど、いろいろな思想や考へや理窟などを盛つたものが多くなつてゐるので、却つてその方を時代思潮に触れてゐるなどと思つたこともあるのである。人生をむきだしに浅く説明したやうなものを却つてすぐれた作だと思つたのである。
 作中に出て来る人物を心境的に詳しくあらはすといふこと――その骨折は大したものだと思はれるが、しかもその難関は誰でも一度は通つて行くであらうと思はれる。そして本格的で同時に心境的であることの難かしいことを痛感するであらうと思はれる。
         △
 人生のことは理窟で知つてゐるのでは駄目である。知識で知つてゐるのでも駄目である。ぢかにその中に浸つて行つたのでなければ、またぢかにその細かい空気に触れて行つたものでなければ、人生のことは本当にはわからないものである。そして人生が本当にわかつてゐればわかつてゐるだけ、その人の考へ方は具体的になつてゐるものである。単純に理窟できめて了つたりしないものである。主義とか思想とか、乃至は時代思潮とかいふものよりももつと奥に人生が静かに展開されてゐるのを知つてゐるものである。そしてさういふ人は、学問や知識がなくとも、その事物の本当であるか否かを、鍍であるか否かを、好加減…

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