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手品
てじな
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十三巻」 臨川書店
1995(平成7)年3月10日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者岡村和彦
公開 / 更新2018-10-17 / 2018-09-28
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 矢張私達の問題は、作者の頭の中のイリユウジヨンを如何にそこにあらはすかといふことが大切であつて、古来幾多の作品に徴してもそれだけはたしかであるやうである。それは時代的背景とか、時代的思想とか、またはその時の調子とか気分とかいふものも決して度外視することは出来ないけれども、さういふものはその表現の中に必然にあらはれて来てゐなければならないもので、私達作者に取つては、その表現といふことが一番肝腎であるのである。
 その証拠には、何処に行つても何ういふ合評の席に行つても、一番先きに問題になるのは、その表現の巧拙乃至自然にあるやうである。いかに作者がその持つ頭の中のイリユウジヨンをはつきりとそこにあらはしてゐるか。眼に見えるやうにあらはしてゐるか。浮彫のやうにあらはしてゐるか。またいかにその細緻な表現を示してゐるか。さういふことが一番先に問題になるやうである。さういふことが何より先にその作品の価値を決定的にして了ふやうである。いかに内容が立派であつても、いかに思想がすぐれてゐても、またいかにそこに盛られてある作者の体験が本当でも、単にそれだけでは、そのイリユウジヨンがはつきりとあらはされてゐなくては、多くは単なる記録になつて了ふやうである。従つて私達作者の第一にやらなければならないことは、そのあらはすといふことで、それを絵画の方で言つて見れば、絵具の雑ぜ方とか、色の出し方とか、刷毛のつかひ方とかいふ技巧方面のこと、更に言ひ換へれば手品とか仕懸けとか言つた方のことが作者としては最も必要なことなのである。やれ内容が何うの、思想が何うのと言つてゐるひまに、少しでもその作者独特の色彩なり調子なりを出すことに苦心しなければならないのである。自分の眼で見、耳で聞き、心で感じたことを出来るだけユニツクにカンバスの上にあらはすことに努力しなければならないのである。つまり芸術に携はるものとしては、それが最初の出発点であつて、そしてまた最後の到着点でなければならないのである。さうかと言つて、私は技巧論者ではない。技巧だけが芸術だなどゝ言ふものではない。もつともつと先のことを言つてゐるのである。
 私達は古来幾多のすぐれた作品が、これを小にしてはその折々の文壇の潮流、これを大にしてはその時代々々のすさまじい潮流の中に浮きつ沈みつゝ漂つて来たさまををり/\想像して見るのであるが、その中には其の持つ思想の重たい為に深く沈んで仕舞ふものもあらうし、またあまりに軽すぎて忽ち流されて了つたものもあるであらうし、ある動機で岸にくつ着いたまゝ動かずにそこに留まつて了つたものもあるであらうし、それはさま/″\であつたらうと思ふが、その中でも、流されずに沈まされずに今日まで伝はつて来てゐる作品はそれは思想ではない内容ではない体験ではない――否、さういふものゝ上に超越したもの、即ち鮮かに表現されたものであ…

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