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動的芸術
どうてきげいじゅつ
作品ID48929
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店
1995(平成7)年4月10日
初出「文章世界 第八巻第四号「若草号」」博文館、1913(大正2)年3月15日
入力者tatsuki
校正者hitsuji
公開 / 更新2021-01-22 / 2020-12-27
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 静かな芸術から動いた芸術に進んで行つた。それが新しい文学の最近の傾向であると思ふ。
 動いた芸術と言ふことは、動いた物象、動いた人物、動いた心理――さういふものをそのまゝに現はさうとする芸術である。動いている……樹が風に動いてゐる……それをそのまゝ描く。
 将来派の芸術は無論さういふ処を狙つて興つたものに相違ない。心の萎靡頽敗した形でも、昏迷惑溺した形でも、何でも、それをそのまゝに、気分のまゝに描かうとした処が面白い。
 心の現象と外面の現象とのぴつたり合つた処に起つて来る動的情緒、その気分を描くには、在来の単純な描法を用ゐてゐては十分にその効果を現はすことが出来ないにきまつてゐる。では、何ういふ方法を用ゆるかと言ふと、それは研究すべき問題で、中々一朝一夕には言はれないやうなものであるかも知れぬ。しかし私の考では、影の多い文章を書くことが必要だと思ふ。つまり単純でない文章である。いろ/\細かい気分がその周囲にくつゝいてゐるやうな文章である。
 淡い中に濃い影をつゝみ、原色の中に複雑した色彩を包むといふことは、芸術上の唯一の至妙境に達するものでなければ容易に解することの出来ないやうなものだが、そこまで達することが、動的芸術を作るに於て最も必要である。一句、一章――そこに躍動した影が自然に出て来なければならぬ。
 静的芸術と動的芸術とを比較して見ると、前者は何うしても過去的、追憶的で、その芸術は物語風になつて行く傾きがある。これに比べると、後者は現在的、刹那的、描写的で、少しでも過去になつて行くやうなところがあると、その運動はすぐ停止されて、そして停滞して了ふ。
 動くといふことは現在のことである。現在ばかりのことである。過去があつても、それは純粋の意味の過去ではなくつて、現在に来て融和されて了つた過去である。現在と一緒になつて動いてゐる過去である。であるから、静的芸術では過去は過去として描かれ、現在は現在として描かれてゐるが、動的芸術になると、あらゆるものすべて現在で、それが平面的に生きて動いてゐる。物語といふものがその原則から言つてすつかり亡くなつて了つてゐる。
 私はこの運動を大変に面白いと思ふ。リアリズムからナチユラリズム、ナチユラリズムからインプレツシヨニズム、それからこの動的芸術は一歩を進めて出て来てるのである。作者は物語から描写に行き、そこからこの活動に出て行つた。
 ホルツの徹底自然主義などもこの運動に間接に連絡してゐると私は思ふ。ホルツの見た所も、矢張現在にのみ行かうとしてゐる。つとめて御話風の処を脱却しやうと心がけてゐる。『真に迫る』といふモツトウ以外に、絵画的平面的にならうとするやうな特徴が徹底自然主義に十分に明かに見えてゐるが、そこがこの動的にならうとする運動と相連絡してゐる点である。しかし、印象派の絵画はまだ十分動的ではない。モネあた…

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