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波の音
なみのおと |
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作品ID | 48932 |
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著者 | 田山 花袋 Ⓦ / 田山 録弥 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「定本 花袋全集 第二十二巻」 臨川書店 1995(平成7)年2月10日 |
初出 | 「女性改造 第二巻第四号」1923(大正12)年4月1日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | 津村田悟 |
公開 / 更新 | 2019-07-20 / 2019-06-28 |
長さの目安 | 約 11 ページ(500字/頁で計算) |
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一
『何うもあれは変だね?』かう大学生の小畠はそこに入つて来た旅舎の中年の女中に言つた。それは広い海に面した室で、長い縁側と、スロオプになつてゐる広場とを隔てゝ、向うに波の白く凄じく岩に当つて砕けてゐるのを目にするやうなところであつた。
『え?』
頷で客の指す方に眼を遣りながら女中は訊いた。
『あの女さ?』
『あ、あの岩の上の? 本当ね? 何うかしてるのね?』女中もぢつと其方の方を見た。
岸に近く、大きな岩の突立つてゐるその一角には、さつきからその女――十八九の女学生風の庇髪に結つた女が、さも大海のどよみに引込まれてでも行きさうに、ぢつと長い間立ち尽してゐるのをかれ等は目にした。さつきまでは立つてゐたのが、今はいくらかこゞみ加減に岩の一角に身を寄せるやうにしてゐた。
『さつきから、あそこにゐるんですか?』
『さう――』
小畠は答へた。
『いやねえ! さつきも向うでそんなことを言つてゐたんですけどもね。誰か言つてやつて呉れると好いのねえ!』女中はぢつと其方を見詰めるやうにして、『もしものことでもあると、それこそ本当に可哀相ですからねえ?』
『家の客?』
小畠は訊いた。
『いゝえ、家のお客ぢやないんですけどもね。何でも、K館に来てる客ださうですよ。昨日からですよ、あゝしてあちこちに立つてゐるのは。何でも昨日の夕方とか、向うの松原の中を泣きながら歩いてゐたのを見たものがあつたので、それから皆なが気が附き出したんですツて? 何でも、家の番頭さんがK館に言つてやつたさうです?』
『ひとりつきりなの?』
『さうですつて。…………あとから誰か来るやうな話で、一昨日から来てゐるんださうですけども。――そのつれなんか来やしないんですつて?』
『可哀相だな』
『本当に誰か言つてやつて呉れると好いと思ふのねえ。あの若さで、間違ひでもすると、それこそ可哀相ですからねえ』
女中はまたその岩の上の方をぢつと見た。
大学生の小畠には、しかし何うすることも出来なかつた。自分で言つてやりたいやうな気持もしないではなかつたけれども、さうかと言つて、余り軽挙に、果してさうか否かもわからないところに出て行くわけにも行かなかつた。かれは軽い胸の故障を治すために半月ほど前から此の海岸の旅舎に来てゐるのであつたが、そのわかい心には、波の音も、雲のたゝずまひも、松原を透してさし込んで来る夕日の影も、微かな音を立てゝ沖を通つて行くエンジン仕かけの漁船も、すべて情緒を惹くの材料とならぬものはなかつた。かれはレクラムのハイネの詩集を手にしつゝ、いつも裏の松原から灯台の方へと出て行つた。時には、日の暮れ果てゝ了ふまで、その灯台の丘の上に立つてゐることなどもないではなかつた。かれも昨日の夕、帰つて来る松原の一角でその女学生風の女が向うから歩いて来るのにふと出会したことを思ひ起した。青白い、何方かと言へ…