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野の花を
ののはなを |
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作品ID | 48942 |
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著者 | 田山 花袋 Ⓦ / 田山 録弥 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店 1995(平成7)年4月10日 |
初出 | 「文章世界 第十五巻第一号」1920(大正9)年1月1日 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | hitsuji |
公開 / 更新 | 2022-01-11 / 2021-12-27 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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静かに木の立つやうに
静かに木の立つたやうに、物も思はず、世も思はず、自己をも思はず、人間をも思はず――。
唯自然に
慈悲と言ふことも、頭に上つて来なければ来なくとも好い。他でもなければ自でもなく、自でもなければ他でもない。飽くまで唯、自然に。
蠅
障子の桟にもう動けなくなつた蠅が一つとまつてゐる。辛うじて紙につかまつてゐるだけで、もう少し経つたら、ばたりと落ちて死んで了ふだらうと思はれる。それでゐて、容易に死なない。朝日がさして来ると、また動き出す、はしやぎ出す、場合に由つては再び飛ばうとさへした。
社会と平行になるには
いかに社会の中に自己を発見しやうとしても、社会はいつも余りに平凡であつた。余りに外面的であつた。また余りに微温的であつた。それは、自己の魂を取巻てゐる雰囲気だけは、何うやら彼うやら社会と接触することが出来ても、魂まで接触させることは竟に竟に不可能であつた。私の経験した所では、社会と平行になるといふことは、自己の魂を亡くすことであつた。自己の本当のものを失ふことであつた。私は思つた。『私の魂はいつも社会に向つて出て行かうとはしない。社会に容れられると否とに拘らず、私の魂はいつも一つところにゐる。何うすることも出来ないところにゐる』
物語の程度
箇人同志ならば、大抵な場合、直ちに此方の魂で、向うの魂を引出して来ることが出来る。つかみ出しても来ることも出来る。しかし、社会はさうした魂を持つてゐない。引出して来やうにも、さうした魂がない。だから困る。
何うしてさうだらう? 箇人の堆積から出来上つた社会に、何うしてさうした魂がないだらう? つまり箇と箇との触れ方が、多く繁くなつて行くにつれて好加減になつて行く傾向があるからである。お話乃至物語以上に深く触れて行かない形があるからである。人情と義理の程度に留つてそれから先に一歩も出て行かないからである。では、何んな社会でも、何んな黄金時代の社会でも、何うしても、さうした箇の魂を、社会は持つことは出来ないのか? 私は出来ないやうに思ふ。箇と社会とは、到底ぴつたりと一致することは永久に出来ないもののやうに思ふ。
政策
社会の為めにする政策は多すぎるほどある。箇のためにする政策は?
後者を選ぶ
箇に社会が圧せられる時代がある。社会に箇が圧せられる時代がある。何方が好いか? 私は無論後者を選ぶ。何故かと言へば、箇の妥協化、箇の平凡化よりも、振張された箇の方が確かに生気に富んでゐると思ふからである。魂があると思ふからである。
社会と作家
社会なしには絶対に生存することの出来ない作家がある。憫むべきかなである。箇が社会に引張られて行くのでなしに、社会が箇に引張られて行く時、始めてそこにすぐれた文学があり、すぐれた作家があり、すぐれた文壇があるといふものである。
あ…