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墓の上に墓
はかのうえにはか
作品ID48943
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店
1995(平成7)年4月10日
初出「文章世界 第十二巻第三号」1917(大正6)年3月1日
入力者tatsuki
校正者hitsuji
公開 / 更新2020-04-22 / 2020-03-28
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 銘々に、代り代り人生の舞台に出て行く形が面白いではないか。古来何千年の昔から人間がやつて来たと同じやうに、波の上に波が打寄せて来るやうに……。
 我々は墓の上に墓を築きつゝあるのである。ロマン・ロオランが死者に逢ふといふことは自分の生を段々送つて行くことだと云つたが、実際さういふ気がする。父母の生活は年を経るに従つて次第に私達の心と胸とに蘇つて来る、父母も、又その父母も、祖先も皆な我々の中に生きて動いてゐる。
 我々は矢張父母や祖先の苦んだ人生の重荷と艱難と苦痛とに堪へて生きて行かなければならないのである。又、その人生の重荷と艱難と苦痛とに堪へてこそ、我々は我々の生を完成することが出来るのである。完成は死でそして亦再生である。
 後に続くものに対する愛、さういふことを私はよく考へた、新時代に対する反抗と言ふが、反抗どころか、私は無限と同化と愛とをそれに感ぜずには居られない。何故なら、その人達に由つて、私達は後に蘇ることが出来るのであるから、その人達が真に深く真面目に私達のことを考へる時が来るのであるから。それは今日、父母や祖先の生活が新しく蘇つて来てゐるやうに。
 若い時分にあつては、死は一種の恐怖であつた。いつ何処からこの死が突然躍り出て来るかわからなかつた。それほど若い心は死といふものを理解することが出来なかつたのである。若い心に取つては、死はまだあまり遠すぎた。縁がなさすぎた。
 しかし、今では、死といふものに対しても、微かながら理解が出来て来た。兎に角あと十年なり十五年経てば、当然いやでも死んで行くのである。さう思ふだけそれだけ死に近づいてゐると共に、死がもう不自然に突然にやつて来るものでないといふことが思はれた。死は、今では決して恐怖ではなかつた。『時』といふことを感ぜざるものよ、盲目なるものよ、鈍感なるものよ。爾はかの流動の枢軸の動く音をきかざるか。人生と宇宙との廻転して行く凄じき響を耳にせざるか。
 総べて善である。すべて好き日である。すべて美である。苦しむものよ、その苦みを去れ、歎くものよ、その歎きを去れ、悲しむもの、その悲しみを去れ。爾の前には、すべて善きもの美しきもの、はなやかなるもので満されてゐるではないか。
 新しい時代は、多くは抽象たるを免れない。又多くは思想たるを免れない。しかしこれは止むを得ないことだ。読書から帰納して得て来たものと、血肉からぢかに絞り出して得て来たものとでは、仮令その内容は同じであつても、全然違ふものであることを我々は考へなければならない。万巻の書より得た知識、それを我々は常に生かすことを考へなければならない。
 最初の無我と最後の無我とを比較せよ。これは同じ形であつても、決して同じものではない。
 しかし、新時代に、最初の無我に、最後の無我を求めるものは、これは求めるものゝ誤である。最初の無我は、これから益…

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