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ひとつのパラソル
ひとつのパラソル
作品ID48947
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十二巻」 臨川書店
1995(平成7)年2月10日
初出「令女界 第四巻第十一号」1925(大正14)年11月1日
入力者tatsuki
校正者津村田悟
公開 / 更新2018-01-22 / 2017-12-26
長さの目安約 10 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 大学生のKが春の休みに帰つてからもう三日になつた。かれは昨年の矢張今頃に母と父とを三日おきに亡くしてゐるので、そのお祭をするのもその帰郷の大きな理由だが、それ以上にかれは常子の眉目に引かれてゐた。Kはせめてその休暇をかの女のゐるところで静かに送らうとしたのである。
 勿論、二人の間にはまだ何事も出来てゐるのではなかつた。Kの憧憬は其処にも此処にもその常子の面影を見、呼吸を感じ、そのやさしい存在を描くことが出来るほどそれほど強く色彩づけられてあつたけれども、しかもその心は少しも向ふに通じてゐるわけでも何でもなかつた。常子は常にやさしい顔を静かに裁縫の上に落してゐた。さういふ熱い男の恋心が、垣に添つて、または小路をつたつて、時には塀のかげ、時には川の畔といふ風に既に二年もそこらを彷徨つてゐるやうなことは夢にも知らなかつたのである。やさしい小さなつゝましやかな鳩!
 しかも今度の帰郷に際して、ことにKに情けなかつたことは、既に三日になつても、未だに一度もその憧憬の心を満足させることが出来なかつたことである。その眉目を眼の前にすることが出来なかつたことである。不幸にして常子はそこにゐなかつたのである。東京の親類へ行つたといふことは今日になつて始めてわかつた。
 Kは失望したばかりではなかつた。いろ/\の不安がかれを脅かした。東京に行つたのは、何かわけがあるのではないか。向うに見合にでも行つたのではないか。もはや既にその縁がきまつたのではないか。これほど思つた心の一端をも把つて示しもしない中に、その小さなやさしい鳩は飛び去つて了つたのではないか。さう思ふとゐても立つてもゐられないやうな気がした。同級生のSが、
『だつて、それは君無理だよ。黙つてゐては何うにもなりはしないよ。それは、生中そんなことをして、その珠のやうな恋心に疵をつけるのは堪らないといふその君の心はわかつてゐるけれども、さういふ風にそつとして置いては駄目だよ。もう少し勇気を起し給へ。恋にも男らしい勇気が要ると思ふな』かう言つてこの休みには是非とも積極的な行動を取るやうにしたまへと勧めたことなどが繰返された。かれは昨日も一昨日もその家の向うを流れてゐる大きな川に向つてぼんやりして暮したことをくり返した。
 三日目の朝、KはSからのはがきを受取つた。Sは今日遊びにやつて来るらしかつた。――午前の十時にはF駅に着くから、そのつもりで待つてゐて呉れ給へ――とそこには書いてあつた。かれはそのはがきを引くり返して見た。生憎だな! と思つた。あたりの田舎の景色はあるが、沼や林や大河の眺めもあるが、それ以上にかれは自分の恋人をSに見せたかつた。むしろそのためにのみかれを此処に来るべく誘つたのであつた。生憎だな! 今度はかれはそれを口に出して言つた。
 しかし何うにもならなかつた。かれは二階から下へ下りて、そこにゐ…

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