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文壇一夕話
ぶんだんいっせきわ |
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作品ID | 48955 |
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著者 | 田山 花袋 Ⓦ / 田山 録弥 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店 1995(平成7)年4月10日 |
初出 | 「文章世界 第四巻第十四号「秋風号」」博文館、1909(明治42)年11月1日 |
入力者 | tatsuki |
校正者 | hitsuji |
公開 / 更新 | 2020-07-07 / 2020-12-24 |
長さの目安 | 約 7 ページ(500字/頁で計算) |
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現実といふ意味
現実に接触したところに今の新興文芸は生れたのだと言はれる。現実なるものゝ意味をよく了解することの必要なるは言ふ迄もない。然るにその根柢を為して居る現実が、多くは空疎な抽象的のものになつて了つたり、大ざつぱなものになつて了つたりして、まだ真に実際的の現実を理解し飲込んで筆を執るといふ態度の尠ないのは甚だ心細い、例へば処女が妻となり、母となつて現実に触れて行く事実は世の中に有りあふれた日常の些事である。その平凡な事でも真率な心を以てマジメに考察し研究して見ればそれが動かすべからざる実際の現実である。殊更に特異な感じや、事件の発展に興味を繋いで居る人達は、やはり空な現実に煩ひされて居るからであるまいか。
経験といふ意味
私とて必ずしも現実なるものを知つてゐるとは言はない。けれど経験は多少私をしてこの世間の現実を思はしめた。私はその現実を低い地上のたしかな立場から、自分の心持に照して作品に顕はしたいと思ふ。つまり私一個だけの現実、個人を通じて見た現実のライフである。即ち私自身の現実なりライフなりを芸術と結合はせて行かうといふのが私の主意だ。私の茲にいふ現実は、各個人が実際に接触して得たところの現実といふ意味に他ならない。
子供
私に子供があるとする。『子供は可愛いものでせうね?』と訊かれる。『否』と私は答へる。そんなら『憎いか』と訊かれても、また『否』と繰返す。
或時は憎く、或時は可愛いのが、子供に対する心持である。
島崎君は『芽生』の中に子供は自分の一部分であると書かれた。
子供との関係は本能の関係である。
似非デカダン
自己の生活に濫して酒肉を買ひ、傍に迷惑をかけても恬として恥ぢないやうな、生若い似非デカダン、道楽デカダンには私は何時も怖毛を振ふ。
イブセン
曾て長谷川天渓君がイブセンの作風を雪舟の絵画に譬へて言はれた。あの骨ばかりの肉を付けない作風はたしかに雪舟の山水そのまゝである。彼独特の領域にして、北欧の風雪が培かつた奇峭、峻厳、冷酷の気は、あの粗ツぽく力強い筆致に遺憾なく描破されて居る。ツルゲネエフやフロオベルのやうに柔かい肉附けをした作家から見たら、イブセンの作柄は如何にも没趣味な殺風景な、非芸術品に見えたであらう。
私の見る所ではイブセンは非常な経験家であつたらしい。なげき[#挿絵]いた苦悶の子といふことが歴々と解る。手強くなすつた刷毛跡の一筋にも、彼の涙と溜息が潜んで居るやうに感ぜられ、鋼鉄の針のやうな一線一線に彼のライフそのものがついて見えるやうに思はれる。
『それから』の評
夏目漱石氏の『それから』を読んだ。一種の心理を描出しやうとする作者の工風を面白いと思つた。けれど大体に於て、説明的学究的の弊に堕して居るのを飽足らず思つた。『かういふ理由だからかうだ』といふ風に頭から定めてかゝられる…