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自からを信ぜよ
みずからをしんぜよ
作品ID48958
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十四巻」 臨川書店
1995(平成7)年4月10日
初出「文章世界 第十二巻第六号」1917(大正6)年6月1日
入力者tatsuki
校正者hitsuji
公開 / 更新2020-09-23 / 2020-08-28
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 総て物が平等に見え出して来るといふことは、面白い人間の心理状態である。美も醜も、善も悪も、旨いも拙いも、昔感じたやうに大きな差別を見ずに、又は好悪を感ぜずに、あるがまゝにあるといふ風に感じて来る心理、この心理は差別をのみ気にし、又は箇をのみ気にした心理と、何ういふ関係を持つてゐるか。
 人が大きな家屋に住んでゐる。立派な庭園を持つてゐる。綺羅を尽してゐる。贅沢を尽してゐる。又これと反対に、膝を容れる一室に粗衣、蠣食をしてゐる。行くに車もなければ自動車もない。しかも、この二つのものは平等である。同じく幸福である。『何に、同じだよ、少しも違ひやしないよ。』かういふ平等観の心理の起つて来るといふことは何故であるか。
 箇を押しつめて考へて見たからである。我執、理想、空想、煩悩、さういふものを数々押しつめて、そこから理解が生じて来たからである。理解といふことは、例の経文などにある『解』である。主観の文殊の方にある解と、客観の普賢の方にある『行』と相対してゐる。『行』は行なふと言ふよりもめぐるである。この『解』と『行』との交錯融合したところから、さうした平等観の心理が出て来るといふことを私は感じた。
 この心理から言ふと、自己は所謂個人主義で言ふ所の自己ではない。小なる自己ではなくつて大なる自己である。『箇』から次第に『全』に向つて完成して行く自己である。私は曾て自己の完成といふことを説いた。又自己の『自然』大にまで生長して行くことを説いた。しかし、それは多くは誤解された。差別の境にゐる人には、自己は何うしても個人主義以上に出て行けるとは思へないらしかつた。
 従つて、この『箇』の研究は非常に大切である。無自覚―自覚―無自覚、かういふ形式を曾て私は示したことがあるが、この自覚が、覚が、『箇』に心が住してゐる時を示した形で、この覚から再び無自覚に入つて行くところが非常に難かしい。覚は大切なことであるが、覚そのものの位置にとゞまつてゐては、その覚が決してその用を成さない。又、微妙の心の門の扉を開くことが出来ない。
『箇』より見たる『箇』は無限際である。又無数量である。いくら箇の研究に全努力を挙げて見たところで、徒らに記録と写生とを増すばかりである。研究すればするほど益々零細になつて行く。『こんなことをいつまでやつてゐたつて仕方がない。』鈍根でない人は必ずかう言つて慨くに相違ない。又非常なる単調と疲労と平凡とを感じて来るに相違ない。例の自然主義が平凡主義、日常生活主義に堕ちて、人に厭がられて行つた形である。
 この『箇』とこの『覚』と、これを一度破壊するために、釈迦は例の山に入つて行つたのではないか。



 性格と言ふことに就いても私は長く考へて来た。つまり『箇』の研究である。私はその『箇』の細かい研究から、『解』即ち理解を得やうとした。しかし、いかに詳しい又は…

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