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浴室
ゆどの
作品ID48963
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十一巻」 臨川書店
1995(平成7)年1月10日
初出「苦楽 第二巻第四号」プラトン社、1925(大正14)年10月1日
入力者tatsuki
校正者hitsuji
公開 / 更新2021-05-13 / 2021-04-27
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 ……此処まで来れば、もはや探し出されるおそれはない。あらゆるものから遁れて来た。あらゆる障碍から、あらゆる圧迫から、あらゆる苦痛から。かう思つて、Kはじつとあたりを眺めた。
 サツと流れてゐる谷川が一番先きに眼に入つた。それはさう大して好いといふほどではないが、ところどころに岩石があつて、その上で新しい鍔広の麦稈帽を日にかゞやかしつゝ避暑客が鮎を釣つてゐるのがそれと指された。此方から向うの町に行く仮橋の上には、をりをり自転車や車が通つて行つた。
 Kはじつと一ところサヽラのやうに砕けて白く流れてゐる谷川の瀬に見入つてゐたが、その内部には常に絶えずかの女をはつきりと強く感じた。かの女を、たうとうその身のものにして了つたかの女を、嵐のやうな中を竟に此処まで引張つて来たかの女を、かの女の心を、かの女の肌を、かの女の眉を、かの女の唇を。
「あゝあゝ」
 思はずかう言つてKは重苦しい溜息をついた。もう何うにもならなかつた。かれ等は行くところまで行かなければならなかつた。かれは昨夜も二人の涙が床を浸したことを思ひ起した。その涙を禁めるためにすら二人は互ひに相抱かなければならなかつたことを思ひ起した。
 それはひとり手にさうなつて行つたやうなものだつた。かういふ風にしたといふよりも、かういふ風になつて行つたといふやうなものだつた。次第に両方からせばめられて行つた結果は、何うしてもかうなつて行くより他にしやうがなかつた。それはたとへて見れば、せまいせまい道を二人して通つて来て、やつと此処までやつて来たやうなものだツた。そしてその先には何がある? 何が待つてゐる?
「死!」
 Kはじつとそれを見詰めた。その言葉を見詰めた。
 かれは冷たい氷か、鋭利な刃にでも触れたやうな気がした。
 さうした内部の光景に引かへて、あたりは平和でのんきで且つ静かであつた。水はサツと快よい音楽を立てゝ流れた。山はどころどころに[#「どころどころに」はママ]白い雲を靡かせて此方から向うへと連りわたつてゐた。ふとかれはその後に軽い足音を感じた。サラサラと半ば解けたやうな帯の気勢を感じた。白いといふよりも蒼いといふ方が好いくらゐなその女の顔を感じた。つゞいて女のそつと近寄つて来る微かな呼吸を感じた。



 でも、張詰めてばかりもゐなかつた。昨日の午後は、二人はそこで椅子を並べて外を見てゐた。
 丁度自動車組合の一年の祝日か何かで、その前を何台も何台も美しく粧飾された自動車が通つて行つた。時々何処かで花火の揚る音がした。
「何処でせう? あの花火を揚げてゐるのは?」
「さア……何でも裏の方だね?」
「賑やかね?」
 かの女はさう言つたが、そのまゝ立つて長い廊下を向うの方へと行つた。その突当りは窓になつてゐて、そこから裏の方がずつと一目に見わたされるらしかつたが、痩せてすらりとした身を女は半ばそ…

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