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正宗君について
まさむねくんについて
作品ID48975
著者田山 花袋 / 田山 録弥
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 花袋全集 第二十三巻」 臨川書店
1995(平成7)年3月10日
初出「新潮 第四十一巻第六号」1924(大正13)年12月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者津村田悟
公開 / 更新2021-03-03 / 2021-02-26
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



『徒然草』の作者を正宗君はよく持ち出すが、何処かそこに似たところがある。共通したところがある。島崎君がよく芭蕉翁を持ち出すのと比べて見て、そこに非常に興味があると思ふ。
 芭蕉と兼好とは、全く種類の違つた人間で、兼好が進歩して芭蕉になるといふわけではない。兼好は何処まで行つても、ああした観察と皮肉と絶望とを持つて生きて行つたに相違ないし、芭蕉はまた芭蕉でいかに談林派の空気の中に生きてゐても、矢張あゝした真面目なところのあつた人に相違ない。さう見て来ると、人間の質と言ふものは不思議なものだ。何処まで行つても変らないものだといふ気がした。
 正宗君が聡明であるといふことは、文壇での通り言葉であるが、私はそれには異存はない。しかし、世間から聡明だと言はれることは好いことであるか、わるいことであるか、それはわからない。私の考では、聡明な人はよくその聡明に捉へられるものである。人が愚かに見えたり、物の将来がはつきりとわかつたり、事件の表裏がすぐそれときめられたりするといふことは、非常に好いことではあるが、また羨しいことでもあるが、一面さういふ風なのが聡明に捉へられたといふことになるのである。つまり自分の智慧にあまりに信頼した形になるのである。自分ではさういふ気でなしに、ひとり手にさうなつて行くのである。賢人は賢に破れ、智者は智に亡びるといふことがあるが、さういふ形が何処からとなく出来て来るのである。



 正宗君の作品を読むと、皮肉な観察がいつでも出て来る。従つてそのかげにゐる作者がいつも傍観的な感じを持つてあらはれて来る。そんなことは何うでも好いぢやないかとは言つてはゐないが、何処かわきに捨てゝ置いてしつこくそれを見てゐるといふ形がある。それもそれに愛着して捨てたのではなくて、好加減に軽く捨て去つて了つたと言つたやうなものが多い。だから執着がさう深くない、従つてその作品を読んだ感じにも、間色が多く単色は稀である。
 正宗君に熱情を望むのは、望む方が間違つてゐるかも知れない。正宗君は岩野のやうなドンキホオテには何うしてもなり得ない人である。



 それに、正宗君は存外に世間といふものを重く見てゐる。それが主観的でないのだから、その主観に対して常に幻滅を感じてゐる所以である。そこに正宗君の矛盾がある。つまり根は存外理想家であるが、世間に対する標準が物質的なのである。そのために何処かそこにそぐはないところが出てゐるのである。隠遯的な気分はありながらしかも竟に隠遯的になることの出来ないのもそのためである。その点では著しく『徒然草』の作者に似てゐるのを私は見る。
 正宗君に取つては、世間はかなりに気になるやうである。さうかと言つて、世間には雑りたくはないし、世間と同列になつて好い気になどはとてもなつてゐられる質でもないが、しかしそれを見てゐると、さびしくつてじつ…

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